先週は渉が思わぬ不可効力で、クラスの女の子の胸を触ってしまうという「とんだハプニ ング」が起きたところで終了となったが、その最後の一文がおかしかったので、正しい文章をここに示しておきます。

                〈修正文〉

 それ故、もうすぐ70歳になるという身なのに〝ラスコーの洞窟の壁画〟の様に、脳裏の奥深くに刻み、焼き付かせてあるのであった

 

 

 

 さて、今週は中学生から高校生になるところなのだが、「受験」でまた一悶着あったのと、中学生時代は一言で言うと渉にとって「どんな印象だったのか」?  そしてさらに、お得意の脱線で話がどんどんエスカレートしてしまって、まるで「番外編」のような立ち回りになってしまったが、それが ‶私の思うがままに” という基本的な考えを以てしても、なかなかままならない事なのである。

 

 

     中学生の思い出      

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 小学六年生の一時期、加山雄三に嵌まった時があった。D市の映画館に「若大将シリーズ」を中学生と偽って1人で観に行ったりしていた。

 最近まで加山雄三はギター片手にステージを行っていたが,一昨年(2022年)一杯でコンサート活動に終止符を打った。残念ではあるが、85歳の高齢で二度の脳梗塞を患って、入院した事を考えれば致し方なしというところか。

とにかくカッコ良かった。そして当時、一生懸命彼の歌を憶えた。

 

 今でも忘れられないのが、昔で言う「流行歌」(りゅうこうか=はやりのうた)を小学校で歌うのは禁止されていた時代、ある日の放課後、校庭に下校を促す為に流れた曲は何と、加山雄三の「蒼い星くず」だった。たぶん放送部の生徒で、加山雄三が好きな生徒がいたのだ。これは流行歌とは違うぞ!と言っているかの様にそれは流され、校庭に居た生徒のハートを包み込んだ。

 

「たーあった一人の日暮に~♪ 

見上げるそーらの星くず~♪ 

僕と君の二つの愛がかーぜに震えて

光かーあっているぜ~♪」

 

 とスピーカーから流れると、校庭で遊んでいた女の子の何人かが「ツイスト」を踊りだした。そんな光景が思い出される。加山雄三の曲が流れると下校どころか、皮肉な事に次の曲を待つ子が多かった。

 それは放送部の生徒の粋な計らいだった。が、その後、先生に咎められたのか、つまらない「蛍の光」に戻され、それが流れると誰かが「ちぇ、つまんえな」と言い、みんな家を目指してさっさと帰ったのだった。

 

 その加山雄三が渉を洋楽に(いざな)った。何か言い方が野暮で陳腐だが、それが事実だ。

加山雄三なくして渉が歌謡曲から離れることは出来なかった。三橋美智也から小林旭そして御三家ときて、エレキブームが起こり、そして日本人離れしたマスクに濃いめの体毛、太い眉毛に男らしい眼。どれをとっても一級品だった。そして最も驚いたのは、曲は弾 厚作という名で自作だった事であった。今で言うシンガーソングライターの走りでもあったのだ。

 そうして渉の中で、それがビートルズに結びついたのだった。どう考えても、橋幸夫や三橋美智也からビートルズに一っ飛びする事は無理な話だと思う。

 

 ビートルズ以前のロックンロールは、チャック・ベリーやB・Bキングなどが火付け役に、そしてかのエルビス・プレスリーが登場して、一世を風靡してお膳立てをしたところにビートルズがデビューした。そしてそれは、あっという間に世界を席巻したのだった。

 ビートルズサウンドはそれまでのロックンロールとは違う、新しくてハートフル、そして旋風を巻越すのに充分なエネルギーを含んでいた。シャウトもするけど、ジョン・ポール・ジョージのハーモニーが奇麗で美しく、サウンドもリードギター、リズムギター、ベースギター、そしてドラムスというオーソドックスなスタイルで、4人夫々が担当し、ピアノやタンバリン、ハーモニカという楽器の他にも、手拍子や擬音をも取り入れ、8トラックのテープをフルに使ったそのミックスされたサウンドは、当時の他の曲が単調に聞こえてしまうほど、聞く人の琴線に触れるサウンドだった。そしてビートルズの面々はたいそうなイケメンでもあった。

 

 こんなビートルズと、もう57年の長きに渡りお付き合いをさせて貰っている。

ビートルズ自体は1962年にデビューし1970年に解散した。8年間で世に送り出した曲は250曲以上を世に送り出している。

解散後も4人は夫々個々にバンドを組んだり、或いはソロで活動したが、1980年ジョンが凶弾に倒れ、2001年ジョージは脳腫瘍で亡くなっている。

 

 11歳の時、もしビートルズの存在が無かったとしたら、渉は自作の曲を書いて、歌う事もなかっただろうし、35年のブランクを経て、これからまた、72歳迄には昔のようにギターを弾き、曲を作り、歌を歌い、あがよくば、何処ぞのステージでデビューしようなどという大それた目標を掲げることもなかったと思う。

音楽へ(いざな)ってくれたビートルズと言う「(ともしび)」は、中学一年生の多感な時に(とも)り、そして時代の変遷に惑うこともなく、渉の音楽への情熱をずっと消さずに照らし続けてくれた「トゥワイライト」なのである。

 

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 母の入院で始まった中学生時代は、今思うに、ある意味で渉を岐路に立たせてくれた。学業が脅威的に伸びていれば、学者、教授、研究員等の職業に興味を持ったかもしれないが、僕のドモリ癖は一向に身を潜める気配は無いし、成績は落ちたっきり上がって来ない。特に理数系は全く好きになれなかった。つまり、最初から学業に対する能力・或いはセンスがなかったのである。

 

 じゃあ、美術、音楽は?

  この科目も何一つ身に付かなかった。美術を習ったなら絵画・彫刻に対する興味・好き嫌いを論評出来る位は知識として身に着かなければおかしいし、音楽を習ったらなら簡単な楽譜を読む、或いは書ける位になっていてもおかしくはない。ヤマハやカワイの音楽教室で受講料を払ってピアノを習わなければ、音符が読めない、書けない。そして楽器の演奏もできない。そんな中途半端な学校教育って一体何なんだ、と急にトバッチリを受けた、それらの教科には申し訳ないが、そう、声を大にして言いたい。己が努力もしないで、教え方に問題がある等という事はおこがましいかも知れないが……。

 

 そしてまた、ここで本論と大きく乖離した話、つまり大きく脱線させて貰いますが、ここは非常にこれからの日本人の在り様が変わるかどうかの、そして少子高齢化をストップさせる一要因にもなると考えられるので、「番外編」ではありませんが、大いに言わせて貰おうと思うのです。

 

 教育を受けたら国語の様に全員が文字を読み、そして書き、話せる様になるし、算数の計算だって出来るようになるはずだ。それなのに何で音楽では、ト音記号や音符、はたまたシャープやフラットの記号の意味は分かっても、なぜ、初めての曲でも五線紙の上にちりばめられた音符を頼りにどうして歌えないのか。国語の教科書の物語はみんな読めて理解できるのに、なぜ音楽の音符は読めず、歌えないのであろうか。

 

それは国数理社は「必須科目」であり、音楽・美術・家庭科・体育は「その他の4教科」だからであり、授業時間が週2~3回位しかないからなのだ。

 

 それは偉大な大間違いである、と言いたい。もし音楽が国語・算数と同じ時間数あれば、学校で習う音楽で充分音符迄読め、暗譜まで出来る子供もでてくるはずだ。美術だってアニメーションの勉強が小学生から出来ていれば、日本のアニメは今もすごいが、もっとすごい物になっていたのかもしれない。

 

  「その他の4教科」の所為で、国語算数(数学)の学校授業で減った分は学習塾で習えれば、時間的不足を補え、且つ個別指導の学習塾なら、その子供がどこで引っかかっているかもわかるのである。算数と音楽どちらが将来を通じて役に立つかと言えば、だれがどう見ても、多くの一般人から見たら微分積分が出来るより、カラオケボックスで初めて歌う歌でも音符が読めれば歌えるようになっていたいと思う人が  99%であろう。また欧米人が簡単にやってのける「ハモル」ことだって出来るようになると思う。さらに誰もが一つぐらい楽器が出来れば家族で演奏会が出来る等、楽しい時間が増えるし、住宅も完全防音の部屋があり、各家庭で音楽会が出来れば家族の絆が濃密になり、演劇を仕事にしたいと子供が言っても当たり前の様になり、人生の幅が一幅も二幅も広がると思うのである。

 

 さらにやっと文科省のお役人から大臣迄が気付いた「英語への取り組み」についてもまだまだ英会話塾任せが拭えない。言葉はまず話すことが出来て「ナンボ」の世界である。シェークスピアの文学を研究する訳ではないので、文法なんぞを習う必要など一切ない。まず話せる様にする事が大事だ。英語の時間を二分して一方を「グラマー(英文法)」にする必要など全く以って時間の無駄なのである。S+V+Oなんて事は話せる様になってからの方がよっぽど頭に入る。

 

 日本人の考え方で筆記試験の点数で優劣を決めようとするからいけないのだ。つまり小学校時代の英語は、体育や音楽等と同じ様に実技が大切なのであって、ペパーテスト何て不必要なのだ。

 

 大学を含めて10年間も英語を習っているにも拘らず、誰も英語を話せない。さらに英語の先生自身が、外国人と対等に英語を話せない。この10年間は全く無駄な時間であった。それこそ税金にすると、一人当たり1,000万円を払い過ぎている位の大損をぶっこいているのである。

 英語を話せるようになりたいのなら、駅前にある「英会話学校」へ行って習って下さいという考え方はもう20年前に死滅している。

日本人の何処の地方の老若男女でも分かり、且つ使える英語は、「サンキュー」「イエスとノー」とビートルズの曲じゃあるまいし、「ハロー・グッドバイ」位だろう。

「ナイス トゥ ミー チュウ」となるともう全く分からず、その返事が「サンキュー」じゃ、昔のカレーの宣伝ではないが〝インド人もびっくり〟なのだ。

 

 これだったらビートルズの歌詞を教科書にして、教えてもらった方がよっぽど英語をもっと身近なものに感じることが出来たに違いない。

「We/ can/ work/it/ out」というビートルズの歌がある。

直訳すると「我々はそれを成し遂げる事が出来る」となるのだが……。

 でもこれは「やれば出来る」あるいは「為せば成る」と訳すのである。               ついでに詩の中身を和訳すれば、相当の英語力になる。答えはレコードジャケットの中の歌詞カードにある。

 

 「Ⅰ/  have/ a /pen」「私はペンを持っています」こんな言い方は普通の会話ではまず使わない。「私はペンを持っている」で世界中を楽しませることが出来たのはピコ太郎ぐらいだ。

 

 「My /name/ is/ Nanami」「拙者は七海と申す」

これも時代劇的言い回しだそうだ。

現在の普通の言い回しは「Im/ a /Nanami」

が「私は七海です」だそうだ。言葉は生きているのだ。

そんなことも知らずに、大リーガ—になった日本人選手が

インタビューで「My /name/ is/  Tanaka」。

「あぁ~あ、もう、またやらかしてる」と

思う事が始終あり、見ていて恥ずかしい。これも日本の英語教育の成せる技。

 何れにしても「微分積分」で飯が食えるのは精々教育者か、数学者位だが、建築家になりたいのなら、数学・物理、そして図工ができないと一人前とは言えない。何故図工かって?それはデザイン画を描いたり、模型を作ったりしなければならにないからだ。そうい意味でもその他4教科は、将来仕事をする上で非常に大切な基本的な要素なのである。

 

 話を元に戻そう。渉の中学時代を天気で表現すると「曇り時々雨」であった。天下を取っていた小学生時代と違い、いろんな項目の中で己が誰にも負けないと自慢できるものが無くなってしまい、残ったのは「ドモリ」「近眼」「劣等感」「自己肯定感の喪失」等の肉体的・精神的欠陥が残骸の様に横たわり、支柱を支える筈の「心の釘」も赤茶色に錆びて腐っていた。

 P市のS高校から東大へ行く学力も根気も、魅力も失せていたので、この時の渉は単なるサラリーマンではなく、他の道を選ぼうと薄ボンヤリと将来の事をそんな風に考えていたのだった。

 

 

     卒業~入学 すれすれで受かった高校

 

 1969年(昭和44年)3月、中学校を卒業し、つまり「義務教育」過程を修了し、高校へ行く子、働く子に分かれた。働く子は数人で自分の家の稼業を継ぐために社会人になった子がいたと担任の先生から聞いたが、自分の周りの知っている子の中にはいなかった。

 この時代は、もう中学卒業の子を「金の卵」と呼んで珍重した「高度成長時代」は、とっくのとうに終わりを告げていて、都内やその周辺の地域では会社に就職するという中卒の生徒はいなかったように思う。

 

 卒業の前に高校受験があったが、当時は学区制というものがあり、学区内の県立普通高校のトップはA高校、次がY高校、S高校の順で、担任の長谷部先生から、渉はS高校だったら入学可と言われていたが、S高校は同じP市にあったが電車、バスを乗り継いでも裕に一時間は掛かった。それに比べY高校はお隣の市ではあったが、徒歩で20分足らず。

 その当時元気になった母から「ほら、ごらんなさい。勉強しないからそういう事になるのよ」と嫌味を言われ反抗する気もなく、もう半ば諦めていて願書を書く気すらなく暫く放っておいた。

 

 そうしていると、願書提出一週間前の夕方、家の電話が鳴った。母が夕飯の支度の手を止めて出た。「はい、七海でございます。はあ、あっ先生ですか。いつも渉がお世話になっております。はい、えっ、いえ、まだですが。……はぁ、えっ、本当ですか。本当に大丈夫なんでしょうか」

「はい、ありがとうございます。ええ、伝えます。はい、分かりました。本当にありがとうございました。はい、では、はい失礼致します」と言って電話を切ると

ノックして部屋に入って来るなり、

「今、長谷部先生から電話があって、

Y高校でいいって。Y高を受験していいってよ。大丈夫だって」と言って

まるで自分の事のように喜んでいた。

 

 この当時の受験は、学年主任を通じて各教室の担任経由でOKが出れば、余程のことがない限り落ちることはなかった。学年主任が担任の長谷部先生で大ラッキーだった。

 

 渉は「よっしゃー、やった」と一気に〝ふて330人の採用に対し、430人位の応募者がおり、100人採用に対し、430人位の応募者がおり、100人程度は落ちるのであった。

 渉はこのチャンスを絶対に無駄にせぬよう、人が変わった様に残り一週間、蓋をしていた受験勉強の蓋をもう一度開け直し、漬物の古漬けを確認するかの如く壷の底の方までよくかき回し、社会や理科、英単語の見直しなど徹底的に再復習を行なった。

 

 願書の提出、試験の日の事はもう忘れてしまって、試験の問題も、思ったより出来たのか、出来なかったのか、それすらも忘れてしまった。物覚えが良かった母ももう亡くなって居ないし、発表の日もどうやって行ったのかも全て、すっかり、きれいに忘れたが、とにかく合格し、確か入学式の日がドピーカンの晴天であったが、前日までの大雪で、Y高の周りは当時は畑で一面の雪で真っ白であった。それから三年間、Y高にお世話になった。

 

 渉は、現役の晩年で学習塾の教室長をやっていた関係で、今の高校受験の事には詳しいつもりだが、現在のY高校は偏差値が「66」(2018年 進学社調査)で、県の上位10校に入り、進学重点指導校となっている。僕が通った頃はまだ偏差値での表示は無かったので何とも言えないが、多分「55」前後ではなかろうか。まして330人の合格者の内、100人以上が同じN中学校の生徒。つまり三人一人はN中の生徒という事で、結構お行儀の良くない生徒も当時はまじっていた。東京からの私鉄が延線になり、現在はZ市方面からも、優秀な生徒が入学する為、さらに渉の息子もY高に入学したが、その数年前から女子と男子の割合が2対1となり女子が圧倒的に多くなった時がちょうどゆとり教育真っ盛り時代にあった。お陰でY高の偏差値が上がったと言える。

 

 入学してすぐ、4月の中旬に主要5教科のテストがあった(今でもこのテストはあるが、順位の発表はしないようだ)が、当時はその結果が発表された。その結果330人中313番。この事だけは〝自分自身の中で今でも語り草〟になっているほど、屈辱の順位だった。基本的には、痩せても枯れても「負けず嫌い」の性格は「三つ子の魂百迄も」の諺通り、この結果は渉の気持ちの中では当時の澱んだ状況では無くなったものの、70歳になろうとしている今でも流せないでいるのである。自分の後ろの

17人の名前を控えておけば良かったと最近になって思うが、その時はさすがにショックで生気を失っていたので、後ろの17人の事なんて全く考えなかった。

 中学校の時はスティルス戦闘機並みの成績になったと言っ750人中150番以下になったことはなかったので、それがドべから簡単に数えられる18人目、前からは何と313人目の成績ではさすがに母親にも言えなかった。

 

 もともと、数学は余り得意ではなかったが、高校生になってからは〝微分積分チンプンカンプン〟といった具合で、二年間の数学は10段階評価で「4」になった事もあり、また物理・化学の授業も大っ嫌いだったので、間違っても理系には進めないと一年生の夏には悟っていた。

 特に数学の藤本先生は生徒を育てようという気が無く、問題を出し生徒を当てて答えさせ、間違えると立たせ、正解の答えを出すまで座れないという授業だったので、数学が苦手な関田と僕は授業終了まで立っていることも多く、それは、それは〝屈辱・恥辱の嵐〟だった。  

 後ろのヤツから「おい七海、黒板の字が見えないよ~。もうちょっと左へよってくれ~」とクスクス笑いながら言われると、むしずが走り「くっそー、このヤロウ~、ぶっ飛ばすぞー」と心の中で叫んでいた事を今でもしっかり覚えている。

 

この藤本という先生は、感受性の強い子供は人前で恥を掻かされるのは〝屈辱〟以外の何物でもない、という事が全く分かってない。そして(はずかし)められた生徒が反省して次は恥を掻かない様に一生懸命勉強するとも、まったく思っていない先生で、答えられないとイヤらしい目で薄ら笑いを浮かべている変態野郎なのである。

 

少なくとも塾で思春期の生徒と過ごしてきた渉に言わせれば、藤本先生は、教師としての最低限必要な資質すら持ち合わせていないと思われる人で、余程子供時代に屈辱的な扱いを受けたか、若しくは教師になってから生徒に馬鹿にされたのか、男女問わず生徒を〝目の敵〟にしている様にしか見えない先生だった。褒めることを知らないのではなく、子供は褒めると、図に乗り自分(藤井先生)を馬鹿にするような人間になると思っている節が見え隠れしているのであった。

 

 

               =To Be Continued=