中学一・二年生の年生の時にあった渉の四大ニュースを披露しよう!     

     ラジオ製作会社を設立

 

 同じクラスに金田君と井口君という生徒がいた。二人ともラジオを作るのが好きで、休み時間に二人で良くラジオの話をしていた。それを横で聴いていた渉も、実は小学校六年生の時、理科の授業で「ゲルマニウム・ラジオ」を作って以来、自分でも不思議なくらいラジオ制作に嵌まってしまっていた。

 当時は、ラジオ、テレビ、ステレオ装置などには〝真空管〟が使われていた。その後、〝真空管〟が〝トランジスタ〟に取って代わられ、今は〝半導体〟というものが電機製品のみならず、自動車、飛行機、船舶というような乗り物から、コンピューターやパソコンなど身の回りにある、ありとあらゆる製品に使われている。

 

 中学に入ってから、毎月の小遣いで、「鉄道ピクトリアル」と「ラジオ制作」という雑誌を買っていた。両方買うと500円位の出費で、概ね小遣いを使い果たしてしまうので、「ラジオ制作」しか買わない月の方が多かった。なんせ肉屋のコロッケ1

個が10円の時代、雑誌とはいえ複数冊を買うには、まだ高かった。

 「ラジオ制作」の巻末には、差し込みの付録のような格好でラジオの「設計図」が付いていて、特に真空管を6本使う「6球スーパー」の設計図は、見るからに壮大で複雑。将来の夢として作ることを決めていた。今でも大工道具箱の中には、〝ハンダ(ごて)〟と当時の〝ハンダの余り〟が捨てられずに残っている。57年前の代物である。

 

 やがて渉はその金田、井口両君の話の輪に参加し、そして3人で本格的な真空管のラジオ制作を行おうとしていた。誰の発案かは覚えていないが、架空の会社を作り社名を金田 明の「カ」、井口 真澄の「イ」、七海 渉の「ナ」を取って「ナカイ電気商会」と命名し、個々に3球スーパーのラジオの制作から始めた。今となっては部品をどこで調達して、幾ら位掛かったかは、全く覚えてないが、お金は貯めておいたお年玉から出したと思う。

 

 3球スーパーを最初に完成させたのは、やはり井口君だった。完成品を学校に持って来てスイッチを入れると物の見事に音が出た。ハンダ付けもきれいだし、音にも雑味が無い。クラスの殆どの生徒が井口君を囲んで、彼を称賛した。

 

 続いて完成したのは、これも順当で金田君だった。彼のラジオはカバー(中の真空管とか基盤が見えない様に木製の箱形ボディー)付きで、あとスイッチとボリュームのボタンがあれば、市販のラジオの様にカッコよかった。

 

 そして最後は渉だったのだが、完成はしたものの音が鳴らず、ゲルマニュウムラジオの時と同じで、スイッチを入れても第一声が出ない。

 生まれたての赤ん坊が泣かないので尻を叩いたりして、暫くして泣くという事があるが、渉が生んだ赤ん坊はどこを叩いてもいつまで経っても泣かなかった。そのままの状態で学校へ持っていき、井口医師にテスターの様な機械で診てもらったが、原因が分からず、そのまま井口医師が預かる事になった。それ以来、その3球スーパーは渉の手元には戻らなかった。

 

 その理由は持ち帰った井口君が「どうやっても音が出ない」と連絡してきて、その時点よりも少し前に渉はラジオを作ることを諦めたところだったので、井口君には礼を言い、そのキットは「何かの足しに使って」と言って、上げたのであった。

 

 それこそ6球はおろか、最初の3球スーパーですら音が出ない、さらに原因を突き止めて貰った結果が「不明」では、ラジオの制作を行う価値と素質がないと考えた。

 その時点で母の夢を壊し、完全に理系とオサラバしたのであった。

 

 こんな状況の中で、「たら・れば」の話ほど女々しい話は無いが、もし、3球スー

パーが一発で鳴っていたら電気を使ったモノ作り、つまり電気製品や、車の製造に携わるとか、そっち方面の技術者の道が開けた…?? …とは思わない。

 物事はそんなに簡単ではなく、色々な挫折を乗り越えて結集され、成就するものだと思うから、音が出なかった時点で「自分には才能がない」と判断したと言える。

 であれば、あまり先へ進んでから諦めるより、最初の段階でスパッと切った方が後腐れや未練も残らない。と思い、そうして短くも(はかな)く「ナカイ電気商会」は解散したのであった。メデタシメデタシ(パチパチパチパチ)であった。

 

 井口君はその後、渉と同じT高に入学したが、三年間一度もクラスが一緒にならず、言葉を交わすことも殆どなかったが、中学では陸上部で活躍し、尚且つ、手先が器用で、漫画を描くのも上手で、中一の時、おそ松君の〝イヤミ〟を書いてくれと頼むとヒョイヒョイと描いてくれ、「じゃあ次は〝チビ太〟次は〝鉄人28号〟と矢継ぎ早にリクエストしても殆ど本物そっくりに描けていたのには脱帽だった。只僕のリクエストで唯一描けなかったのが「黒い秘密兵器の椿林太郎」だった。渉がそう言ったら「なんだそれ?」って言われ、野球漫画には殆ど興味がなかったようだった。

 

 井口君は大学を出て、大好きだった漫画の仕事にでも就いているのかなと思っていたら、高三の時井口君と同じクラスだった、〝息子のミニバスの大会で偶然出会って以来、今も二日に一度位ラインのやりとりで言葉を交わす〟大親友の笹本君に尋ねたら、鎌田にある専門学校でオーディオや家電の専攻コースの先生になったと聞いて、「軟」の漫画ではなく「硬」の電気機器の仕事を選んだんだと思い、さすが井口君「初心貫徹」と感心した次第であった。

 

 金田君は私立高校へ進み、卓球部に入ったところまでしか消息は掴めていないが

彼も井口君以上にまじめなやつだったのできっと公務員とか先生、若しくは技術者、或いは研究者か何かになって、世間のニュース何て言うか、安っぽいその日限りのちっぽけな研究ではなく、日本若しくは世界で、一般の人が知らずに恩恵を被っている何かを研究し技術革新をもたらしているような仕事に就いているのではないかと思っている。

 

 渉は今でもその時の事を思い出すが、あのまま一発で音が出ていたら音響機器のエンジニアにでもなっていただろうかと考えることがあるが、自分がパナソニックやソニーの作業服を着て、新しい音響機器を製作している絵が浮かんでくるかと思ってみても、貧相な想像しか沸き立って来ないから、やはり理系の仕事は運命的にも、全く180°向いていなかったのであった。

 

 

     目から火のパンチ

 

 中学生になり、1学年700人からの大所帯となると、そりゃ今でいう“イケメン”や“喧嘩っ早いヤツ”“頭の良いヤツ”等それぞれのジャンルで自分より優っているヤツが大勢いた。

 そんな中で喧嘩がめっぽう強く、中学校に入って最初にノサレたのが古田というヤツ。こいつのパンチはすごかった。

 

 授業終了後のホームルームの時間に僕のクラスの生徒他のクラスの生徒が廊下で待っているケースがたまにあった。普通なら黙って待っているが、その日は違った。この古田というヤツは廊下で、

「お~い小塚、早く帰ろうぜ」

「早く終われや」とかなんとか散々に廊下で(わめ)いている。つまり、邪魔をしているのだった。最初は学級委員の渉も我慢していたが、余りにしつこく煩いので廊下へ出て

「オイ、そこの。煩いんだよ」

「静かにしろよ」と言ったら、

いきなり、「なぁーにー」と言いながら走り寄って来てガシッと学ランの襟をわし噛みにして次の瞬間、どてっ腹に一発、ドスッとパンチを食らって、渉は目から火花が散って、次に目の前が真っ暗になってその場に倒れたんだと思う。

 とにかく、その間の時間は分からないが古田に起こされ、すごいスピードで何が起こったのか分からず、目の前で、

「悪りいな、ごめん」

と謝っている古田の顔が薄ぼんやりとあったのを記憶している。

 古田はその後、あの硬派で有名だった国士館高校に入学し、番長になったと風の噂で聞いたが、あの時のパンチは「さもありなん」と思わせる一発殺傷のパンチだった。

 

 それ以来、喧嘩したら叶わない連中が近くにもぞろぞろいて、もう七海 渉の出番は完全になくなった。悔しいも何もなく、生き延びるための処世術として「硬派から軟派へ」路線変更せざるを得なくなったのであった。

 

     

     ビートルズとの出会い                       

 

 1966年6月29日、長髪の4人組ロックバンド「ビートルズ」が日本の地を踏んだ。

 

 それは、ある意味で日本国中を席巻するほどのハリケーンの様な勢いとなった。

 政治の世界をも巻き込んで、その来日の是非や、神聖なる武道の場である「武道館」を音楽、それもクラシックではなく、下品なロックとかなんとかいう、騒がしい音楽を金切り声で「歌う」というより「叫ぶ」「ペートル」とか何とかいう、髪の毛を女の子のように伸ばした、イギリスの不良青年のバンドに武道以外で、初めて貸す事への賛否両論が来日前から渦巻いていた。

 

 自民党内にも反対派はおり、当時の総理大臣佐藤栄作さえも口を挟み、特に右翼の大日本愛国党の赤尾  敏が街宣車を繰り出して「ビートルズ ゴ― ホーム」の横断幕を掲げて「青少年を不良化するビートルズを日本から追い出せ」と街頭演説でガナッたもんだった。

 

 しかし、最後の最後に佐藤首相や政治評論家の細川隆元、そして赤尾敏らの反対派を黙らせたのは、彼らは英国で女王陛下(エリザベスⅡ世、一去年、2022年9月8日に逝去)よりMBE勲章を授与されたサーの称号を持つ青年なのである、と言うことが、彼らを黙らせるに功を奏したらしい。

 

 今なら考えられない「武道館でのコンサート」「男の長髪」「ロックンロール」「シャウト」と言った当たり前のことが、当時の最先端を行っていた4人の青年の事を、その時代の大人に理解させようとすること自体が無理な話で浅はかな事だった。

 こんな来日前のすったもんだはあったが、当のビートルズは「武道館」で三日間に渡り5回のコンサートを無事にこなし、次の訪問国フィリピンへ向かう機上の人となった。と、以上簡単に纏めると「ビートルズ」来日に関するエピソードとはこんな感じだった。

 

 当時の日本はイギリスやアメリカから見たら、経済というハードな部分は物凄い勢いで回復し、軍国主義から民主主義に脱皮した政治も安定して来たと言えた。

 市民の生活様式も〝衣食住〟を中心に欧米ナイズされ、衣服は着物から洋服へ、食事もパン食や洋食の割合が増え、都内や隣接県の新興住宅地にはマンションと呼ばれる集合住宅もチラホラと建ち始め、持ち家が急増した。

 1961年には「年金制度が確立」し、年金支給が始

まった。それが核家族化を進める大きな要因となり、漸く生活レベルも欧米の先進国に〝追いつけ追い越せ〟の状況となった。

 

 がしかし、文化・芸術・音楽といったソフトの部分は、まだまだ欧米諸国ほどの寛容性は日本にはなく、〝良識ある大人〟と〝若者〟との間には、まだ大きな乖離や隔たりがあった。

 

 特に1960年代になると、学生の台頭の中で起こる〝音楽ムーブメント〟の中でロックンロールやフォークソングは若者を洗脳、扇動し兼ねないと大人は考え、それらを排除しようと躍起であった。

 その度に起きる若者と大人の間の軋轢は非常に大きく、大人は音楽の作り手の本位や表現を歪めて解釈し「反戦だ」やれ「反政府運動だ」と特殊化して若者の音楽を認めようとしなかった。

 そんな矢先の〝ビートルズ来日〟だった為、結局、皮肉な事に当時の政治家や評論家の売名行為にビートルズが、意に反して一役も二役もかった(・・・)形になってしまった事にもなった。

 

 1967年にサンフランシスコで起きた「フラワームーブメント」では、「LOVE&PIACE」という思想の下にドラッグでトリップすることが流行り、良識な大人たちをより一層驚愕させた。結局、当時の大人たちはこれらの音楽を通して「若者達が爆発的な結束力を持つこと」を恐れたのであった。

 

 さて、ここからはミクロの世界に入って行こう。

当時、渉は中学一年生で、家には白黒テレビがあった。勿論、学校の女の子の間では「ビートルズ来日」の話でもちきりだった。男の子の間では結構「アンチ・ビートルズ」もいた。渉もその一人だった。そのアンチ以外は全員女の子と同じ様に来日を待ち望んでいた。

 アンチ・ビートルズを人種別に大別すると、

① ベンチャーズ(アメリカ出身)や「霧のカレリア」で一躍有名になった「スプート

  ニクス」(スウェーデン出身)のインストメンタルバンドの方が良いという〝純粋派アンチ人種〟

 

② 女の子がキャーキャー騒ぐ対象物は全て嫌いという〝嫉妬深いアンチ人種〟

 

③ ビートルズの音楽を大して聴かずして、好き嫌いの判断が付いていないのに、①若しくは② のどっちかを理由にして嫌いという

"勉強不足&ひねくれアンチ人種"

  の三つの人種に分類される。

 

 渉は③で、①と②の両方の理由で「ビートルズ」を馬鹿にし、「あんなへんてこなグループのどこが良いんだよ」と女の子にも平気で言い回っていたので、相当数の女子から顰蹙(ひんしゅく)をかっていた。

 

 ビートルズの日本公演の映像がテレビでも流れ、父(43歳)母(41歳)は楽しみにしていたようで、E・Hエリックの司会で番組が始まると、「お~い渉、始まるぞ~」と声掛けするので、〝仕方なく〟を装って父母と一緒に観始めたが、前座のドリフターズが演奏を終わる頃にはもう席を立ち、本当は観たい気持ちを抑えて自分の部屋へ戻ったのだった。その翌月入院してしまう母は「イエスタデイ」が良かったと言っていた。

 

 翌年の正月は母がまだ入院していたので、渉とよし子は桜上水の母の姉の家で過ごした。そこで「衝撃」は起きたのだった。従姉で高一の恵子ちゃんがビートルズファンで「ア・ハードデイズ・ナイト」のLPを聴かせてくれた。これが、渉をビートルズの世界に(いざな)ってくれ、今日までその興奮は時間が止まった様にずっと続いている。

 

   

     初めて触れたオッパイ

 

 中学二年になった。

中一の時と変わって、教室が一階から二階に移り、今でも陽の光が降り注いだ明るい教室というイメージが残る。

 担任は社会科担当の福井 薫先生でニックネームは「かおるチャン」。男だが名前が女の子の様で、自然とクラスという単位を飛び出して、みんなからそう呼ばれていた。

 

 二年六組のクラスは、男女とも性格の暗い子がいなかった為か、常に活気を帯びていた。その中でもひと際目立って騒がしい女の子がいた。

 

ある雲一つない天気の良い日の、昼休み時間のことだった。

渉が外から戻って来て教室に入ろうと、

左手で引き戸の扉を開けようとして取手(とって)に手を掛けた時、

後ろから誰かに「おい、七海」と声を掛けられ

後ろを振り向きながら扉を開ける格好になった。

 

しかしその途端、急に教室の中から誰かが扉を開け、

扉に逃げられた渉の身体は、支えるものが無くなり、

左手だけがどこかに手をつくところを求めて

前のめりの状態のまま、

教室の中に身体が傾いて行ったその瞬間、

その左手が今まで触った事のないような柔らかなものに触れ、

それと同時に「うぅん、いゃん」てな感じの

鼻から抜けるような女の子の声がして、ほのかに女の子の髪の毛の匂いが

下からふわっと湧着き上がって来た。

慌てて倒れこみそうになった体勢を

懸命に戻して声の主の方を見ると、

何とそれは河野さんという例の騒がしい女の子だった。

 

その時の彼女の顔はいつもの騒がしい時の顔ではなく

クリクリッとした大きな目で僕の顔を上目遣いに見ながら

胸を両手で覆い、何ともしおらしい女の子の顔になっていたのだった。

 

一瞬何が起きたのか分からず、河野さんの右胸に

あてがってしまった左手が

自分の体を支えていたことに気が付いて

その感触は脳裏に残しながらも、さっと手を引っ込めた。

 

その間、たった数秒の出来事だったが時すでに遅しで、

教室にいた何人かが河野さんの声で

こちらを振り向き、僕の左手が彼女のオッパイを

押しつぶすような恰好になったところを

見られてしまったと思ったのだが、

その後、男子生徒から茶化されたり、

女子生徒からも非難の目を向けられたり

することが無かったので、

渉は安心して、中学生としてはかなり大き目のオッパイの感触を

いつまでも余韻として左手に沁み込ませることが出来たのだった。

 

 その時以来、脳裏と左手に残ったあの何とも言えない柔らかな感触を思い出す度に悶々として、あの神がかった時間を巻き戻しては何度も何度も頭の中で〝プレイバック〟させるのであったが、それは飽く迄も思い出の世界であって、もう一度彼女にお願いして今度は両掌(りょうてのひら)にあの感触を沁み込ませたいと思うのであった。

 

 河野さんとは高校も一緒になったが、結局、あれ以来クラスも別々で口をきく事もなかったので、彼女のオッパイに「触れてしまった渉」も、あの後も相変わらず騒がしかった「触れられた彼女」もなぜか、渉の前に出ると大人しくなってしまうことから、お互いに初めての思春期の甘い体験であったと、渉は今でも勝手に信じてやまない。

 

その後、渉も人並みに女性の胸に触れさせて頂く機会はあったが、このファーストオッパイタッチの感触だけは全く別物で、不意を突かれたオッパイタッチだっただけにイヤらしい気持ちなど一切ない、生まれて初めての淡く柔らかい経験だった。

 

そして女の子を初めて女性として意識したこと、そしてあの柔らかさは女性の優しさと母性を感じさせるもので、神様が与えてくれた何とも言えない体験であった。

それ故、70歳になっても、あのクスコ―の洞窟の壁画〟の様に、脳裏の奥深くに刻み、焼き付かせてあるのであった。

 

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。