こんばんわ。

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 第一章第8項・第9項・第10項

 

     僕は空想家・他人任せの発明家

 

 小学校三年生の時、通信簿(今で言う成績表)で体育の「4」を除いて、あと全部が「5」という〝離れ技〟をやってのけた。体育の「4」も病気で休んで出席日数不足が原因だった。

 随分大きく出たが「オール5」を取ると言う事はそれ位難しい事だった。これは偏に母の詰め込みスパルタ教育のお陰であったと言うしか他にないであろう。

 どうしてそこまで言い切れるかと言うと、中学一年生の7月、母が大病を患い、半年間入院した時、成績は二学期から三学期にかけて、ものの見事に戦闘機のベテランパイロットでも耐えられない程の「G」をもって急降下し、地を這うスティルス戦闘機状態にまで落ちこんだのだから,母の力は偉大だったと認めざるを得ないのである。

 

 小学四年生の時、体育の時間に野球をやっていて、渉が打った大ファウルが校舎の窓ガラスを割って、五年生の家庭科の授業で作っていたサラダの中にボールが飛び込んだ。

 家庭科の授業をしていた教室に謝りに行ったら、先生からその場で怒られた。当時は給食がまだ無い時で

「どうしてくれるんだ!」

「このサラダはこの生徒たちの

 お昼のおかずになるサラダなんだぞ」と言われ、

そんな事言われたってと思って、何も言えずに立ち尽くしていると、授業終了の鐘が鳴っても渉が戻って来ないものだから、体育担当の先生が心配になってやって来て、「すいません」と謝ってくれ、やっと渉は開放された。

 その事が体育の先生から、渉の担任の森下 章先生に伝えられたところ、森下先生はカンカンになって、渉を頭ごなしに怒った先生の所へ行って怒鳴り飛ばしてくれたと、後で森下先生から聞かされ、それまでモヤモヤしていた気持ちがスキッとして、留飲を下げた思いになったのと、それまでどうも森下先生のことが今一つ好きになれなかったが、その日を境に信頼を置く様になった。

 

 さて、落語で言う「枕」が相当長くなったので、そろそろ本題に入るとしよう。

渉は見掛けによらず、すごい想像力の持ち主であった。物心がついた頃から空想や夢想することが大好きな子で、自分では全く覚えていないが、良く一緒に住んでいる叔母達が、

「渉ちゃんは、よくいろんな発想をして

   大人をびっくりさせたのよ」と云っていたことを思い出す。

 

 確かに小学校の時、一時流行った〝軍人将棋〟も本来の遊び方を知ろうともせず、買ってもらったその日

から自己流で遊んでいて、その遊び方を友達に教えたら、渉の考えた方が面白いと言って、家で遊ぶ時は本来の軍人将棋の遊び方ではなく、渉が考案したやり方で遊んだものだ。

 さらに大学生になった時には、サイコロ2つでやる野球ゲームを考案し、こちらは遊びながら進歩したゲームで、野球盤でやるよりよっぽど緻密で理にかなった遊びだった。

 遊びが興じて最後には各選手の打率、打点、本塁打などの記録も大学ノートにつけるようになり、とどめは、名前は忘れたが、それ専用のスポーツ新聞迄発刊するに至り、大学時代お隣の高原君とそれこそ時間を忘れて興じたものだった。

 

 さて、さっきから自慢話に脱線して、また一向に話が前に進まないので、もう本当にこの辺にして先を急ごう。

 この次の話は実体験から発想したもので、この位の発想は誰にでも出来る事だと思うが、如何なものだろうか。

 

 渉が、小学四年生のある日、通学の途中で図工の授業で使う絵の具を忘れた事に気が付いた。

 片道30分掛かる家まで取りに帰れないし、かといって電話もまだ各家に普及していない時代で、このまま学校に行ったら学級委員たる者が叱られてはまずいし

(どうしよう)と考えても

(どうしようもない)し、と半ばあきらめ気分で、

(あ~ぁ、しょうがないな~)とボォーとしながら歩いているうちに、ふと思ったことがあった。それは、

(忘れ物が空を飛んで手元に届いたらいいのにな~)という事だった。

 

 これを読んでいる皆さん!勘の良い方はもう分かりましたよね。気が付いた方は読み続けて下さい。そうでない方は暫く考えてみて下さい。

 

 それは、今や当たり前のようにカメラを搭載して空の上から、まるで鳥のように絶景を眺められたり、ヘリコプターが入れない様な狭い山間(やまあい)の住宅に薬を届けたり出来る空飛ぶ機械。

 そうです、正解は〝ドローン〟です。

 近い将来、車が空中を飛ぶ時代が来ることは、もうこのドローンの発明で、誰もが現実として受け止められています。

 如何ですか。「へん、その位の事は僕だって考えたよ」という御仁に、次のこの発想は出来ましたでしょうか。

 

 当時はまだ「F1グランプリ」は、今ほど有名ではなく、世界の最高峰の自動車レースといえば、もっぱら「ルマン24時間耐久レース」を指した。

 車はフォードGT40、ACコブラ、フェラーリ250LM。ドライバーはグラハム・ヒル、ジャッキー・スチュアート、ヨッヘン・リント等々。

 それは、錚々たる車とドライバーが出場したこの年(1965年:昭和40年)のルマンの特集をした雑誌を見ながら、小学六年生の時、近くに越してきた西郡君の家でレーシングカー談義をしていた時に発せられた事だった。

 

 ふとその時、何方(どちら)ともなく車の事故の話になり、渉が西郡君に、

「ぶつかったら、ハンドルから風船が出て、人が助かる様にすれば良いんだよ」と

 世紀の言葉を発したのだが、最近そのことを西郡君に確認をしたところ、

「まったく覚えてない」との、そっけない返事に、生き証人を失ってしまって、もう大がっかり。

 渉は彼の家の彼の部屋の前で、外から来て掃き出し口の所に座って、持って行ったカーグラフィックという雑誌を見ながら、そう言ったのだが、西郡君は多分、上の空で話を聞いていたんだと思う。

 

 誠に残念だが、レースの世界では風船(=エアバック)は視界を遮ると危険という事で採用にはならなかったと思うが、まさか一般の車に搭載される日が来るなんて、びっくり仰天なのである。さあ、11歳の時、渉と同じ様に将来のエアバックを想像した人はいるだろうか。

 

 小学六年生の頃、渉の月の小遣いが200円の時分、巷では一台2,000円もする〝レーシングカー〟ブームが到来していた。まずは8の字のレーシングコースを走らせる自宅用サーキットセットが登場し、その後プラモデルのタミヤ社製の24分の1スケールの精巧な〝レーシングカー〟キットが発売されると、瞬く間に一大ブームになった。

 

 そのレーシングカーを自慢気に学校に持ち込んで、教室の後ろの方の席で見つからない様にして、授業中にブラシを磨いている生徒もいた。たまにタイヤクッションのバネをうっかり先生の足元に飛ばして見つかって没収されることもあった。その場合の返却は、父兄に取りに来て貰って、父兄も一緒に怒られた。

 

先生「もう少し管理をしっかりお願いします。」

親御さん「はい、申し訳ありません」

先生「こういう高価なものは、生徒によっては買ってもらえない子供もいます」

親御さん「ハア」

先生「○○君、今度持ってきたら、本当に没収するらね。いいかい」

親御さん「先生申し訳ございませんでした。もう二度と持たせませんので」。

 

 この当時の先生には威厳があった。

 本当に悪いことをするとビンタも飛んだ。特に〝早河 修身(おさみ)〟という名前の先生は名前の通り、ルールを破るヤツには、容赦なく鉄拳ビンタを飛ばす先生だった。生徒は皆んな口々に「修身(しゅうしん)に見つかったら大変だぞ」と言いながら、悪さをしていた。早河先生に叩かれて耳の鼓膜に亀裂が入った生徒がいた。

 今、そんなことをしたら、新聞沙汰になり下手をしなくとも解雇・教員免許剥奪となってもおかしくないが、この頃はまだ悪さをした方が悪いというのが世間の常識で、鼓膜だって破れない限り、ビンタを貰って鼓膜に亀裂が入った位では、母親は「あんたが悪さをしたんだから叩かれて当たり前でしょ。罰が当ったのよ、きっと」と云われ、いい気味だと言わんばかりの風土があった。

 

 またまた話が大脱線したので話を「発想の話」に戻すと、

 これはまだ実用化されていないが、近い将来、車が空を走るのが早いか、こちらが早いか、1984年開催のロサンゼルスオリンピック開会式を見て、はっと思いついたのです。

 宇宙服を着て背中にロケットエンジンを背負った男が、競技場の中を縦横無尽に飛んだ映像を、開会式をご覧になった皆さんなら、きっと覚えているはずです。映画の中ならいざ知らず、その位考えもしない事が目の前で繰り広げられたのです。あの光景が目に焼き付かない訳がありません。

 

 あのロケットエンジンをもっと小型軽量化して、地震や水害で身の危険を感じた時に、30分~1時間程度空中に浮いて、2.3キロの移動が可能な物が一人に一台あれば、災害時に多くの命が助かるのではないかと思ったのです。

 

 この本を読んでいる、小型のロケットエンジンの開発に携わっている方がいましたら、是非開発に着手、或いは完成間近と言うのであれば、大きな災害が来る前に製品化して頂けないものでしょうか。 

 

 如何でしたか、僕の空想・夢想。想像の世界。でも残念ながら僕の場合は、全て他人任せで、思いつき、つまりヒント止まりなのです。

 

 そういえば、中学生の夏休みの理科の宿題で、夏休み終了10日前位から〝やっつけ仕事〟でやった〝発明ブック〟とか何とかと名付けたアイデア商品を10種類ぐらい考えて絵と解説文を掲載し提出した事があった。

 

 そうしたら、いつも白衣を着て理科の授業を担当していた鈴木先生に「すごく面白い」と褒められた迄は良かったのだが、その後に一言。「この中の一点でもいいから、実際に作ってきたらもっと良かったのに」ですって。                 

 残念ながら「やっつけ仕事」にそんな時間はなく、また作るのも嫌いだから、想像の世界に生きているという事を渉自身はよーく分かっていたのだった。

 

 

    東京オリンピックとお祖父ちゃんの死   

 

 1964年(昭和39年)10月10日、日本の戦後復興の集大成である東京オリンピックの開会式が、折しも日本晴れの下、新宿霞ヶ丘に建設された国立競技場で開催された。

 アジア初のオリンピックは、終戦の年の三月、東京大空襲によって焦土と化し、十一万五千人の犠牲者の御霊が眠る地、「東京」で開催された。

 生きてこのスポーツの祭典を観ることが叶わなかった二百万人を超える戦火に散った人々の魂の結集が終戦の日からこの日まで我々を見守り、導いてくれたと今になって感じた。

 

 東京には、近代的なビルが建ち並び、高速道路が縦横無尽に駆け巡り、そして東京大阪間500キロを三時間で結ぶ「夢の超特急 東海道新幹線」も開通した。こうした近代化の実現には、人々も街も活気に満ち溢れ、夢を追いかけ、国民のそういった一丸となった気持ちが大いに寄与したはずだ。

 いかなる民族も、どこの国をも成し得ない、この(たぐい)(まれ)なる戦後19年と言う短期間の中で〝夢の都市誕生〟を実現に導き、オリンピックを開催するまでに至った〝復興の力〟は、日本人の魂の中を流れる熱い血潮の団結と、戦火に散った人々の魂の結集が成した〝快挙〟だと今もそう信じて止まない。

 

 2週間にわたる国際的なビッグイベントの開催国として、日本は恥じない成績を収めた。それもまた快挙だった。

金メダル16個はアメリカ、ソビエト(現ロシア)についで第3位。男子体操、東洋の魔女で知られた大松監督率いる女子バレーボールを筆頭に、柔道、レスリングなどで金メダルを取った。

 

 海外の選手で印象に残った選手は、

陸上では男子100メートルで

10秒フラットを出したアメリカのボブ・ヘイズ、

マラソンでは前回のローマ大会で裸足で走り優勝した

エチオピアのヴィキラ・アベベ。

水泳では一人で4個の金メダルを獲得した

アメリカのドン・ショランダ―、

体操女子ではチェコスロバキア(現チェコ)の

美しいベラ・チャフラフスカ、

柔道ではオランダのアントン・ヘーシンク、

などがあげられる。

 渉は番外編で、女子走り幅跳びで優勝したイギリスのマリー・ランド選手が個人的には好きだった。

 

 日本選手で印象に残ったのは、何と言ってもマラソンの円谷幸吉選手だ。彼は陸上自衛隊に勤務し、まじめで勤勉な性格で仕事も練習も一所懸命やる人だった、と父から聞いた。当時、日本のレベルでは、陸上競技で世界を相手にメダルを取れる種目は無いと言われていた。オリンピックの花形競技と言えば、陸上競技では男子100メートルと、何と言ってもマラソンだった。

 

 そのマラソンでまさか日本がメダルを取れるとは誰も思っていなかったと思う。それが、国立競技場のゲートをくぐって、アベベに次いで二番目でトラックに入って来たのが円谷選手だった。

 あの時、日本国民全員が「円谷頑張れ」の大声援を送ったはずだ。渉も興奮のあまり、半ベソをかきながら母、伯母たちとテレビの前で必死に応援していた。残念ながらその後、競技場に入ってきたイギリスのヒートリー選手にトラックであと半周で抜かれて二位を譲り、三位にはなったが、これもまた〝快挙〟であったことには違いない。

 これは戦後、日本国民の心臓を初めて鷲掴みした昭和史に残る出来事であった。

 

 この後、円谷幸吉は四年後のメキシコオリンピックに出場するために練習に邁進するも、メキシコオリンピックの一年前、あの有名な遺言を残し、自殺してしまった。何がそうさせたのか今もって分からないが、残念でならなかった。

 

 

 オリンピックが終わり、晩秋に近づいた頃からお祖父ちゃんの体の具合が良くなかった。お祖父ちゃんは蕨の疎開先で倒れ、それ以来ずっと床の中で過ごしていた。蕨からP市にどうやって来たのかも知らない。気が付いたら、床の間付きの四畳半の部屋で床を敷いて、寝間着替わりの浴衣を着て寝ていた。

 食事の時だけ、這い這いをして襖一枚隔てた隣の茶の間に出てきて、テレビを見ながらご神前の物入れの扉の前で静香伯母ちゃんがスプーンで口に運んだご飯を黙って頬張り、歯の無い口をもぐもぐさせて三度、三度の食事を仕事の様に毎日消化していた。

 渉が蕨に行くと、倒れる前のお祖父ちゃんはたいそう喜んで抱っこしたり、歩けるようになると、手を取って、お祭りに連れて行ってくれたり、近所の駄菓子屋やおもちゃ屋で色々なものを買ってくれた。

 しかし、渉はまだ小さすぎた所為か、そんな記憶は全くない。お祖父ちゃんと言えば、寝ている傍で飛んだり跳ねたりすると、ロレツの回らない口で「うるさい」としか言わない、意地悪で、臭いウンチをする人と思っていた。

 

 渉が物心ついた頃には、母方のお祖父ちゃんも床に伏せっている姿しか見たことが無かった為、「お祖父ちゃん」とは、寝ていて頭が禿げている人の事を言い、頭にきちんと毛があって、立って歩いている人はお祖父ちゃんとは呼ばないと思っていた。

 まあ、これは冗談だが、それ位世の中でお祖父ちゃんと云えば、70歳(古希)を超えた人は寝たきりになる人が結構多かった。

 なぜなら、当時は70歳まで生きられれば長生きの方であり、男性の平均寿命は68歳、女性が73歳だったのだから。

 

 お祖父ちゃんは、東京オリンピックが開催された10月迄は、いつもと変わらず、毎日きちんとご飯を食べ、たまに食事時間以外も起きてオリンピックを見ていたのに、11月になってから、一日中床の中で過ごす日が続き、次第に食欲も無くなり、主治医の野見山先生が隣駅から日野自動車のヒルマンという車に乗って頻繁に来るようになり、帰りがけのいつもの笑顔が見られず、伯母ちゃんに一言二言小声で何か話して、そのまま静かに帰る日が続いた。

 

 それから暫く経った11月20日の夜、お祖父ちゃんは77歳で亡くなった。

 渉はもう寝ていたが、夜10時過ぎに母が「お祖父ちゃんが亡くなった」と言って起こしに来た。

 お祖父ちゃんは、いつも食事をする六畳の茶の間に、北枕で目を瞑り、口をムの字にして横になっていた。主治医の野見山先生、渉と入れ替わるようにして、往診鞄を手に持ち、玄関で父に挨拶をして帰って行った。

 

 渉は生まれて初めて人が死んだのを見た。静香伯母ちゃんは、涙を目に溜めながらも気丈に振舞い、二人の叔母は野見山先生が帰った後、人目も(はばか)らず、お祖父ちゃんの肩やおでこを撫でながら泣いていた。渉はただ黙ってその光景を見ていた。

   頭上の電灯が、いつもより少し薄暗く感じた。

 

 

鼓笛隊の雄姿

 

 小学六年生の秋、渉は小学校最後の運動会で、二回目の鼓笛隊の総指揮に選ばれた。

 前年の第一回は松田さんという女の子がパーフェクトな演技で場内拍手喝采だった。その時、渉は副指揮だった。

総指揮は、鼓笛隊の先頭を長さ1m位の指揮棒を振りながら歩く、一番目立って、本当にカッコイイ、花形の役どころだった。副指揮は4名で、その後ろから大太鼓・小太鼓・スペリオパイプ(=リコーダー)etcと続いて、行進曲を奏でながら運動会のグランドの周りやフィールド内で、輪を描いたりしながら一周する、運動競技の合間の結構人気のアトラクションだった。

 

 本番一か月前から本格的な練習が始まったが、最初は渉と副指揮の歩くのが早すぎて、隊列との間が空きすぎたり、隊列の中でぶつかったりで、歩く事での失敗が続いた。

担当の小巻先生が朝礼台の上からマイクを通して行進曲を口ずさんで、楽器を演奏せずに歩くことに集中して、やっとのことで歩くスピードを全体が把握出来たら、次は楽器を夫々が持ち、音を実際に出して歩いたが、他の楽器の演奏と合わなかったり、音の調整とかテンポを合わせる調整が続き、ヤットコサットコ形になるのは本番4.5日前。

 もうそこから授業が終わり暗くなるまでの間は、怒涛の猛特訓。小巻先生のガラガラになった声が夕暮れの校庭で耳を(つんざ)いていた。

 

 そうして本番の日を迎えた。

総指揮のいで立ちは白い帽子に

白の上着に白の短パン、

そして白のハイソックスを履き、

白い靴、と白ずくめ。

 

 一つ前の競技が終わりいよいよ出番が来た。

「次はプログラム〇番。鼓笛隊による・・・・・。」と

紹介がアナウンスされ、

入場門から、ホイッスルを吹いて颯爽とグランドへ。

拍手喝さいの中を少しの緊張とかなりの優越感を持って歩き出した。

 

 良い調子でグランドを周り演奏も中盤を過ぎ、

渉は来賓席の脇にある朝礼台の前に立ち、

フィールドを見渡す位置で指揮棒を振っていた。

フィールド内で鼓笛隊は副指揮を先頭に

しっかりと隊列も整い、コースも間違えず、

ほぼ昨年同様にパーフェクトで演舞は終わろうとしていた。

 

 その時だった。渉の頭の中で何かが起きた。

どこで止めたらいいのか、

最後の最後でフィニッシュの箇所が

突然わからなくなったのだ。

既に副指揮と鼓笛隊は僕が立っている前に来て、

副指揮を中心に

その後方で鼓笛隊は演奏をしながら

隊列を崩して左右に移動を始めていた。

 

 その間も渉の頭の中では、

回路がこんがらがって

上手く繋がらない状態だった。

そして渉の頭の中以外は、

ずぅーとパーフェクトで

演奏の終了が近づいて来ていた。

 

 しかし案の定、次の章節で終わるはずの演奏が終わらないのである。父兄はまだ気が付かないが、鼓笛隊は僕の過ちに気付いてくれたのか、最後の章節を繰り返して演奏してくれている。

 渉は右手に持った指揮棒を、胸の高さの位置で手首を使って上下させ、そして鼓笛隊の全員がさっきから左右の足を、その場で上下させているのであった。

後は笛を吹いて止めるだけなのだが、

 もう渉の頭は完全に沸騰し,オーバーヒートを起こし,パニックで湯気を立てていた。

 

 すると、突然朝礼台の脇から、マイクを通してフィニッシュの笛が「ピー、ピー、ピッ、ピッ、ピッ」と鳴ったのだった。渉を除いた全員の足がピタッと止まった。見るに見兼ねて小巻先生が止めてくれたのだった。

 今となってはもう忘れてしまったが、渉の足もやや遅れて止まり、笛を咥えたまま右手で持った指揮棒は、本来最初の「ピー」で空中で円を描き、最後の「ピッ」で脇に抱えたか何かで、カッコよく終わるはずだった。

 しかし、不意を突かれて何がどうなっているのか分からず、指揮棒は右手で持って空に向けたままの状態で終わったのであった。

 

 今思うに、〝家庭用のビデオカメラ〟がまだ普及してなくて本当に良かった。それは、穴があったら入って、一生出て来たくないほどの屈辱の時間だった。

 

 その一部始終が分かっていた来賓席側の父兄の拍手は、半信半疑の拍手でパラパラパラパラと、そしてグランドの向こう側の総指揮の姿が良く見えない場所に居て、耳だけで聴いていた父兄は、普通にパイパチパチパチと手を叩いてくれ、その拍手が入り混じってパラパチ、パラパチと何とも言いようのない拍手の中で、

 また先頭に立って、入場門を後にした時の優越感は完全に何処かへ吹っ飛び、うつむき加減で音に合わせながら指揮棒を上下させ、退場門を恥ずかしながらくぐったのだった。

 

 そこからまっしぐらに来賓席の脇に居た小巻先生のところに謝りに駈け寄ったら、どっちかというと男のような性格で、ベランメエ調の先生だったので

「あんた、何やってたのよー、しょうがないね~。まったく」位の事は言われると覚悟をしていたのに、先生は

「良くやったね、とっても良かったよ。心配しなさんな」と言って、肩をポンポンと叩いてくれた。もし小巻先生と二人っきりの場所でそう言われたら、渉は先生に抱き付いて泣いただろう。

 

 でも小巻先生に対するリスペクトはそう長くは続かなかった。運動会が終わって数日経った頃、小巻先生が、職員室で仲間の先生に「今年の鼓笛隊は、去年と比べるとちょっとお粗末だった」と言っていたという噂が流れ、それが渉の耳に入った時、小巻先生への尊敬の念は、ガラガラと瓦礫のような音を立てて崩れ去ったのだった。

 そして、職員室での先生同士の会話がどうして外に漏れ、それがなぜ僕の耳に入ったのか、それが悔しくて家の布団の中で口を枕に当てて、母と妹がお風呂に入っている間、渉は大声を出して泣いたのだった。

 

 

 

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