自虐伝 「死ぬまで生きたい」

                          日家 昇

           目  次

 

《昭和編》

第一章 生い立ち 幼い日々(幼少期~小学生時代)

         1.誕生

       2.赤いダンプカー

       3.田舎へ引っ越して

       4.スカートの中の恋

       5.明くん

       6.気の小さいガキ大将

                     7.弱い者いじめの学級委員

       8.僕は空想家・他人任せの発明家

       9.東京オリンピックとお祖父ちゃんの死

       10.鼓笛隊の雄姿

                   11.小学生の思い出 

     番外編 「鷹がトンビを生む」

 

   第一章  生い立ち 幼い日々

                                   (幼少期~小学生時代)

     誕生

 

「僕」こと 七海(ななみ) (わたる)は、

   1954年(昭和29年)3月、飯田橋にある昭和27年開業の「東京厚生年金病院」で生まれた。時間は母に聞いたが忘れた。体重は2500グラム。当時でも平均よりはやや少なかった。「渉」という名前は苗字の七海、つまり七つの海を渉り、見聞を広めて欲しいという意味で父方の祖父が付けてくれたものだった。

 当時のお産は、お産婆さんが自宅で取り上げることが多かったと聞くが、東京の四ツ谷に住んでいたと言う事もあり、さすがに病院で生む方が安全で衛生的だったのであろう。

 

 ところで両親は、その頃でいうと、かなり〝ぶっ飛んだ夫婦だった。どちらが望んだかは定かではない。 当時の結婚式と言えば、男性は紋付羽織袴、女性は文金高島田で神前結婚が当たり前の時代に、モーニングとウェディングドレス、そして新婚旅行は「箱根」と、お金が無かった割には、かなり「流行の先端を行く」カップルだったようだ。

 

 P市へ引っ越して暫く経った小学生の頃、親が「新婚旅行に行った」と答えた子は渉を含めてクラスで3.4人足らず。あとの子たちは「行ってない」あるいは「分からない」が大半で、この話に参加した国道の東側から通っている農家の子たちは、全員が「行ってない」であった。戦後7年経った頃になると、都市と田舎の違いが既に始まっていた。

 

 さて渉は、病院を無事退院して両親が住んでいた四ツ谷本塩町にあるアパートで幼少期を過ごすことになった。

 母幸子(ゆきこ)の乳の出が悪かった為、最初からほぼ粉ミルクで育てられた。そのミルクの所為かどうかは分からないが、生まれてから9ヶ月が経った年の瀬に、突然〝消化不良〟を起こし、厚生年金病院へ逆戻りした。

渉はそこで、瀕死の状態に陥るのであった。

 後年の母の話によると、渉は一度死んだそうだ。治療の最中に心臓が止まってしまい、先生が慌てて今で言う蘇生をし、何度も尻を叩いたりして暫くして漸く息を吹き返したらしい。

 死の崖っ淵から転げ落ち、途中の木に引っかかって命拾いをし、どうにかこうにか娑婆(しゃば)に戻って来られた。こうして渉の余生は今年で68年目になるのだった。

 この入院の時、リンゲル液の注射を太ももに打たれたら、赤子の太ももが大人の腕位に膨らんで、父は大丈夫かと心配したそうだ。

 

 何とか生き返って四ツ谷のアパートに戻ると、それから1年後の夏、妹のよし子が生まれた。何とよし子の体重は1500グラムしかなく、ガラスの保育器に入れられ、退院は通常より一か月以上遅くなった。


 四ツ谷のアパートはかなり古く、アパートとは名ばっかりで、トイレは共同。台所も共同で、風呂は勿論ない。部屋はどの部屋も縁なし畳の六畳一間。

その六畳間に洋服ダンスと整理ダンスが置かれ、そこで一家4人がちゃぶ台で食事をし、夜は布団を敷いて川の字になって寝るのであった。想像しただけでも息が詰まりそうな環境だった。

 当時でもこの生活空間は、平均的な住宅の広さと比較しても相当狭く、一応毎月決まった収入はあるものの、皆、食べていくので精一杯という人達が、肩を寄せ合わせて暮らしていた。

 

 父の(まさる)は、終戦後、軍隊から「警察予備隊」に、そしてその後、「自衛隊」となる防衛庁(現防衛省)に入り、定年の58歳迄の35年余りを国家公務員として働き通した人だった。本来は絵描きになりたかったようで、渉が小さい時「ブーブ」の絵を描いてとねだると、それは、それは見事なデッサン画の様な仕上がりの絵を描いてくれたのだった。

 性格は短気で怒りっぽい人だった。

 渉が七歳か八歳の頃、日曜日の朝ごはんの味噌汁の身がワカメで文句を言ったら、家中を追い掛け回され、裸足のまんま庭に飛び出したら父も裸足で追いかけて来て捕まえられ、そのまま有無も言わずに裏の物置に叩きこまれた。

昼も夜も御飯抜きとなり、見兼ねた静香伯母さんがおにぎりを握って持って来てくれて、事なきを得たのであった。夜の八時過ぎに母幸子が懐中電灯を片手にやっと迎えに来てくれたが、渉は物置に閉じ込められた時は絶対に泣かなかった。きっと男として泣くことは恥ずかしいと思う様になったのであろう。


 父は、小さい時からお金に関しては結構細かく、別の言い方で言えば吝嗇(りんしょく)で〝締まり屋〟だった。

 父の妹の敏代叔母さんがこんな話をしてくれたのを思い出した。夜、みんなが寝静まって暫くすると、頭の上の方で、「チリン、チャリン」と音がする。音のする方へ顔を向けると、父の勝がよく布団の中で腹ばいになって、枕の上にお金を出して勘定していたそうだ。

 

 しかしその甲斐あって、父は35歳で土地を買い、家を建てることが出来たと渉は思った。

 当時の国家公務員の収入は今とは違い、一般企業のサラリーマンより格段に安かった。だから、世間で高級と言われる品物を買うなんてことは、清水の舞台から飛び降りたって骨折するのが関の山で、まずもって出来ない事だった。

 誕生日位にしか買って貰えなかったチョコレートをアパートの周りの一軒家に住んでいる子達が食べているのをまともに見せられて、子供心にも欲しくて羨ましかった。

 

 アパートのトイレは一階の一番奥で、暗くて幅の広い廊下を歩いた西側の突当りで、昼間でも薄暗く、夜中にオシッコに行く時は必ず母親について来て貰った。

 がしかし、一つだけ良いことがあった。それは建物の前に100坪近い庭がある事だった。そこは、近所の子供達も来る格好の遊び場だった。共同の洗濯物干し場が半分ぐらいスペースを取ったとしても、この庭は小学校低学年までの子供達が遊ぶに充分の広さだった。

 

 渉は三歳の時、同じアパートに住む一つ年下の女の子が好きだった。名前は全く覚えてない。部屋はお隣りだった。その子も渉のことを気に入っていた様で、いつも一緒にいた。今思うとこれが初恋だったのか。何とおませなガキだったのだろう。

 しかし、渉はよくその子に〝馬乗り〟になって泣かした。好きなのに嫌な事をして泣かせてしまうことは小さい子によく有りがちで、母が度々お隣に謝りに行った。

でも、その子はそんな虐待を受けても、いつも離れず一緒にいる。庭遊びをしているその頃の写真には、必ずその子が写真のどこかに写っている。写真を見ると今でも「かわいいな」と思う。

 これは余計な事だが、好きな女の子に対する虐待は、小学2年生位まで続いた。

 

 

 埼玉県に蕨と言う町がある。ここは戦争も末期になった頃の父方の疎開先であった。牧原さんというお宅に終戦以降も13年間、父方の姉妹三人と弟、そして父親(渉の名前を付けてくれた、父方のお祖父ちゃん)がお世話になっていた。  

 一番下の叔母敏代が四ツ谷のアパートまで渉を迎えに来て、そのお宅によく泊まりに行った。

 

 牧原家には同い歳の信子という子がいた。信子は大家さんの孫で、家族は一階の奥に住んでいた。

 信子は渉の事が大好きで、起きて寝るまでの間、いつも一緒だった。渉もまんざらでもなかったが、唯一嫌だったのは、やることなすこと、静香伯母ちゃんに逐一報告する事だった。

一度、家の道を挟んだ斜め前にある駄菓子屋からお金を払わずにお菓子を持ってきてしまったことがあった時も、

「おばちゃん。 渉ちゃんがね、

  お店からお菓子持ってきちゃったよ」

と言いつけられて、伯母が慌てて店にお金を払いに行ったことがあった。

 

 当時、渉はまだお金を払って物を買うというシステムを知らなかった為、欲しい物は勝手に持ち帰っても悪気は無かったのだが、信子は、お爺ちゃんの代迄、蕨でも結構繁盛した呉服屋を営んでいた商売人の孫である。3歳でもその辺のルールをもう知っていた。このお金を払わず物を持ってきてしまう事には後日談がある。それは後述する事にしよう。

 


最後まで読んで頂き,ありがとうございました。