「心が広い」ってなんなの?

足蹴にされたり蔑ろにされても
イラッとこないヤツは,
心が広いんじゃなくて,
神経どっかぶち切れてんだろ。

だいたい
自分にとって都合の良い相手に
「優しい」とか「心広い」とか
それがあたかも
素晴らしいことであるかのような
ステッカーを貼って・・・
無意識でも計算高いっつーか,
利用されてる感じだな。
心の広さなんて
トイレに流しちまえば良い。


「心が広くない人は嫌だ」
って言う人がいるけど,
そんなの
「私の言うことを聞いてくれて,
思い通りに動いてくれて,
融通の利く人じゃなきゃ嫌だ」
っていう腐った我が儘を
正当化するために
表現を変えて言ってるだけだよな。

だったら二次元行け。
むしろプレス機に挟まれて
平面になって死ねば良い。
屑。
今回は,友達と話してて思ったことがあったので,それについて書きます。


「過去の恋愛」というやつについて。
さらに言うと,「現在恋人がいる」という状況においての「過去の恋愛」についてです。


相手の過去の恋愛。
自分の過去の恋愛。
どう処理するか。
受け入れるか。否か。
ってことです。

(今回は,題材が恋愛関連なだけに,後半はロマンチストになっておりますが,ご了承ください。)


もちろん,過去の相手とクリーンな関係になれていないor縁を切れていないのは,論外だと思います。
ケンカ別れでそのまま縁が切れてても,そんなの問題ありません。OKです。
友達に戻るのもアリでしょう。一定の期間は一番近くにいたわけなので,良き理解者・良き友になれる可能性は大いにあります。
ただ,別れた後も関係をズルズルと引きずるのは,最低です。だらしないと思います。


本題はこんな話じゃありません。


相手の中に,昔の恋人との思い出があるのも嫌。
という人がいます。

私は,手紙やプレゼントなども捨てられないタイプです。

相手に対して未練があるわけではなくても,相手との経験などはある種の糧として,自分の中に置いておきたいのです。

生まれてから今までの一瞬一瞬が自分を形作っているので,その全てを(嫌なことも恥ずべきことも)否定したくありません。
捨てたくありません。
人に影響を与える一番の要因は,他の人だと思います。
恐らくこれには異論の余地など無いでしょう。
人間関係が,その人を形作る最大の要素です。
恋愛は,人間関係の中でも鮮烈で重要なものなので,やはり自分の大部分を形作っていると思うわけです。

もちろん,過去の恋愛の遺物や思い出を,現在の恋人に不必要に打ち明けることはしません。
理解し合えない趣味のようなものだと思っています。



愛する恋人。
そして,その
恋人が愛する私。
その私を形作るのは,
今までの人生の全て。
その一瞬一瞬。
思い出や経験の
一欠片一欠片の全て。

それならば私は,
私を形作る私の人生の
その一瞬一瞬に,
誇りを持とうと思います。
なぜなら,
たった一人の愛しい人に,
「好き」という
どんな栄誉にも勝る
最高の勲章を
与えられたのですから。
私は英語が解りません。
洋楽は好きですが,それはあくまで音楽としての話です。

言語・学問・教養としての英語は苦手です。

そんな私が英語に対して何かを言っても,言い訳にしか聞こえないかもしれませんが,それでも言いたいことがあるのです。

国語よりも英語を重要視するかのような,今の日本の教育体制に対して。


英語はたしかに大切でしょう。

しかし,日本人のくせに,日本語も満足に遣えない分際で,それをすっとばして英語を学ぼうとするのは,あべこべだと思うのです。

仮に,英単語の語彙力を付けて英単語をマスターしたところで,相手との意志疎通をはかれるとは思えません。

気持ちや心の曖昧で繊細な部分は,それにぴったりと当てはまる言葉を見つけることによって,初めて,自分で認識できる場合があります。

つまり,言葉には,周りと繋がるだけでなく,内面的に働く作用も(予想以上に)あり,それも言葉の大切な役割なのです。

今の日本の教育体制は,それを蔑ろにする傾向にあると思います。

「英語の勉強を理解できる方が,国語の勉強を理解できるより偉い」みたいな風潮が,生徒達の間にもありますから。

そのような環境の中で育って,本来の日本人の心を培えるのでしょうか。



私は,日本人として,自己を高めていきたいと思います。
そんな大それたことじゃないんです。
ただ,普通に遊んで,普通に頑張って,普通に日本語を大切にしたいです。




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ちなみに

もし,悩んだ時に心の中でも英語で話しているならば,その人にとっては英語が国語なのでしょうが・・・

多くの日本人は,英語を流暢に話せたとしても,母国語は日本語のままです。

それは,ほぼ無意識に身に付けた日本語と,学ぶことによって身に付けた英語では,使用する脳の場所が違うので,仕方のないことです。