ホラティウス、20世紀を翔ける(「ホラティウス頌」以後)

 

 

  1 序論

 

    

 

    いま求めている師匠といえば

    ティヴォリで ひなたぼっこしている

    最も巧みな詩人ホラティウス

           

        ( オーデン「感謝のことば」:最晩年:1973年の詩

         「オーデン詩集」沢崎順之助訳編、思潮社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

一年ほど前、ローマの詩人ホラティウスの詩の引用がどのように古今の

著作家の著書を「飾る」かを、楽しみながら少しまとめて、「ホラティウ

ス頌」と題して、書いてみた。ホラティウスの引用を、再び引用させて

いただいた著作家は、ペトラルカ、モンテーニュ、ルソー、カントの四人。

ルソーとカントが一番新しく、ほぼ18世紀である。

 それでは19世紀以降はどうだろう。アウグストゥスと同時代の、紀元前

8年に没した桂冠詩人は、後代の著作のページの上に、まるで盛期ローマか

らの「斥侯」のように姿を現している。

 19世紀以降、ホラティウスの著書と詩作が尊ばれ規範とされる事態は

大きく変容し、ルソーが懸賞論文のどこにホラティウスの詩句をおこうか

腐心したようなことはなくなっただろう。一方で古典的教養を重んじる

学問では確かな比重を占め続けているにちがいない。

 19世紀以降、ホラティウスを愛好する人びとの、その「愛好」の規準は

どのようなものなのだろうか。

 

 もう一つ、古典的教養の摂取の規範の問題をはるかに越えて、ヨーロッパ

諸学の伝統が19世紀に終焉したかもしれないという根本的問題がある。ホ

ラティウスの詩文は、なお引用に耐えうるのだろうか。

 アーレントの一行をここに投げかけて、この短い序論を終わる。このあと、

ホラティウスはどのように登場するのだろうか。

 

「キルケゴールとマルクスとニーチェは、われわれにとって、権威を失っ

た過去への道標のようなものである。」

  (「カール・マルクスと西欧政治思想の終焉」アーレント、大月書店)