6-1 展望

 

 

   ルネサンス期から啓蒙の世紀までのヨーロッパで(年代的には14世紀

  から18世紀の)何人かの著名な著作家の作品に、ホラティウスの詩作品

 がどのように登場するかを紹介してきた。年代や地域を限ったわけではな

い。それ以前の時代には日本語で読める作品がほとんどなく、それ以外の

領域では私の印象に残る引用例が少なかったからである。もちろん未読の

場合は多く、見落としてもあるにちがいないが。

 まとめてみると、こうではないか。

第一に、作家たちは、作品のなかに表現されている〈徳〉、ここでは〈英知〉

に注目している。〈英知〉とはここの場合 、謙虚、節度・節制、素朴さ、

静寂な生活(従って田園での生活)に連なるものである。

第二に、作風や詩作態度の底にある核としての〈清新さ〉である。詩の題材や、

主題、詩法に先立つものである。

 

 第一の点については、これまで何度も述べてきた、ことでひとまずいいだろう。

しかし第二の点、〈清新さ〉とは何か?

 さて〈清新さ〉は比較的若い時代の作品に現れる。しかし晩年にあっては、詩を

あまり書かなくなった(寡作になった)ことに求めるのがいいだろう。

 

 ホラティウスがブルートゥスの幕僚として戦った前42年のフィリッピの戦い

の具体的な場面を回想した詩が一つだけある。「カルミナ」Ⅱ・7の「親友ポン

ペイウスの帰還を祝って」という詩である。

 この詩はこのように始まる。

  これまでもよくブルートゥスが

  軍を指揮していた頃に、

  私としばしばあの辛い

  時をわかったポンペイウス。

そのあとにポンペイウスが「僕の 一番親しい友人」であることが表明され、

続いて戦いのなかでの別れ、の回想が来る。

 君と一緒にフィリッピで

 戦ったことや、恥知らずにも、

 楯を捨て去り、一目散に

 逃げ出したことを思い出す。

 自尊心など崩れ去り、

   6-2

 

 

 

     迫りくる敵の粉塵は

     僕らの頬に容赦なく

     襲いかかって来たのだった。

 

     だが、敵軍のさだ中で、

     メルクリウスは、脅えている

     僕を砂塵の雲で隠し、

     素早く救ってくれたのだ。

     一方、君は戦に

     引き戻されて、荒波に

       揉まれるはめになったのだ。

 

     戦場で別れ別れになったポンペイウスが10年余り遅れて帰還

     する。数年前にマエケナスからサビーナの家と地所を与えられ   

   ていたホラティウスは祝いの宴をはる用意はできている。詩は

   驚くほどの平明さで、こう終わる。

    トラキア人と同様に

    羽目をはずして、この僕も

    馬鹿騒ぎでもやるとしよう。

    親しい友が帰って来て、

   大騒ぎするのが嬉しいんだ

     何という単純さ。実はホラティウスの詩を、追っていくと、こ

れでおわっていいのか、と思えるような意表をつく終止法はよ

く見かけるから、詩の技法でもあるのだろうが、この場合は。

技法以前でもあるだろう。

 いま紹介したようなところを、ホラティウスの〈清新さ〉と

呼びたい。裏表がなく屈折がない。この詩に「徳」はあるのだろ

うか?若き日の〈友情〉がそうかもしれない。詩の奥に潜んで  

いるわけではないのだが。

 

 もっと若い日の詩作を見てみよう。フィリッピの戦(前42)

の直後の作品が「エポドン」の中にある。「エポドン」16、

 

  6-3

 

 

    「内戦と絶望」と題された作品である。前41年頃の制作であり、

    「全集」解題によれば、ホラティウスは「共和派の敗戦により、ロ

ーマへの希望を失っていた。」マエケナスに出会う前のことである。

まず、詩の中ほどにこうある。

 亡命以外にすべはなく、

 かのフォカェアの人々は

 父祖以来のその土地や

 家を去り、(下略)

   ※ 小アジアの都市。ペルシャが侵略した際、フォカェア人はガリアに

亡命し、マッシリア(マルセイユ)の町を作った。(訳注) 

と。そして、すぐあとの連にこう続く。

 なぜ吉兆を期待して

 船に乗るのを躊躇うのだ。

 だがわれわれはこう誓おう。

 海の底から海面に

 岩が露出する時まで

 もう帰るまい。

 帆を返し、

 帰国するのはポー川が

、マティーナの丘を洗う時だ。

※   イタリア中南部アプレイアの山のこと(訳注)        

    おわかりのように、亡命の決意や呼びかけの言葉は平明に直情

    を表わし、比喩の部分と対照的である。

     ホラティウスがこの詩を書いたのは20代前半。この詩も、十

余年後の親友ポンペイウスの帰還を祝う詩も、自分の直情をその

まま語る。後年に至ってもそうした詩行をそのまま残す。それを

〈清新さ〉と呼びたい。

 さてホラティウスは、前8年マエケナスと同年に死んでいる。ふ

つう、晩年の作品としては、「カルミナ」第4巻と、二巻の「書簡

詩」があげられる。

     一方で、アントニウスとクレオパトラの対するアクティウムの

    戦勝以後、オクタヴィアヌスの神格化が徐々に進行していた。前27

6-4

 

 

年には元老院から、アウグストゥスの称号を与えられ、前17年

にはローマ百年祭を挙行し、ローマの平和を宣言する。前12年

には大祭司をも兼任する。

ホラティウスは前23年までに「カルミナ」3巻までを刊行し、

ローマ詩人の第一人者となり、アウグストゥスの信頼も得て、

前17年、ローマ百年祭讃歌を書き上げる。ローマの平和をはじ

め、質素を勧め、贅沢を避けるなど、アウグストゥス(オクタヴィ

アヌス)の文化政策に詩を通じて参加していたのである。

 ホラティウスは百年祭後、しばらく筆を絶った(「全集」p285)

らしい。しかし、アウグストゥスは詩を書くことを要請し、ユーモ

アのある手紙で要望したこともあったが、ついにこんな手紙で督促

することになった。この部分はあのスエトニウス(紀元2世紀初め)

の「名士伝・ホラティウス」に幸い残っているので引用することに

しよう:

ホラティウスはその(アウグストゥスの作詩の命令の)ために三

巻の「カルミナ」に長い間隔をおいて第四巻を加える仕儀となった。

さらにアウグストゥスは数篇の「談論」Sermones(「書簡詩1」の

こと:野口注)を読んだあと(略)次のような不満を漏らした。「私

は君に腹をたてているぞ。(略)君は私と友人だと見られたら、後世

に君の恥となるとでも心配しているのか」そしてアウグストゥスは自

分に捧げる詩撰を書かせた。それは次のように始まる。

 あなたはあれほど大きな仕事をお一人で担っています。(下略)

(「書簡詩」Ⅱ・1・1行 「書簡詩」付録 講談社学術文庫p198)

    このアウグストゥス宛てのⅡ・1の詩は、「全集」によれば、「古

い詩と新しい詩」という題で前13年(又は前12年)に書かれている。

※   「全集」ではこれを「会話詩」と訳し「書簡詩1」とはしていない。

 アウグストゥスへの称揚に始まるこの詩は、ギリシアの影響を受

けて起こるローマの文芸史を概括し、その現在位置を指摘する本格

的な内容で、最後に詩を書くことへの辞退が来る。

 その最後の部分を「全集」から引用してみよう。

  作家の私が、蓋をした

  本箱(巻物入れ:訳注)と共に投げ出され、

  乳香や香や胡椒やら、

  

  6-5

 

 

    不要な紙に包まれた

  物と一緒に、街角で

    売られるために運ばれる

    のは真っ平でございます。

   

   最後の一行に注目しよう。翻訳の仕方によって違いが出てくるが、

  「全集」の訳者は、最後の一行に置いて、強調している。

    「真っ平でございます。」はポンペイウス宛ての若き日の詩と

   同様に「直情」なのだろうか。〈清新さ〉とはとらなくていいし、

  「直情」でもないかもしれない。しかしホラティウスらしいとは言

えるだろう。

    これが最後の詩である。ホラティウスは死までの5年間(又は  

   4年間)詩を残していない。

   

    長くなったがホラティウスの核としての〈清新さ〉について書

いてみた。

    さて、ホラティウスは帝政をどうみていたのだろうか?アウグ

ストゥスとは「尊厳なるもの」という意であり、その称号が贈ら

れた前27年を帝政の開始とみることは、アジアの遠い島国の中等

教育でも教えられている。しかし同時に、形式的にせよ、元老院や

コンスル制が残されたのも事実である、ホラティウスは、前17年

のローマ百年祭をはじめ、アウグストゥスの文化政策を中心となっ

て実行したが(一部に批判もあった)、世襲制への道が顕著になる

につれ、アウグストゥスに距離をおくようになったというのが、専

門の学者の多くの見解のようである。

                

 *

 「展望」のしめくくりにいくつか書いておこう。読者も一緒に考

えて頂ければ有難い。

 まず引用する著作家は、なぜ引用するのか、という問題である。

一般的な文献の引用は自分の主張を証拠立てるためだろう。

 では詩の引用はどうだろう。詩は正確に証拠立てないかもしれない。

  6-6

 

 

    しかし、詩は、多くの場合暗喩に包んで、著作家が曰く

言い難いあたりを、包括的に指し示す。読者と共通の了解が

生まれる。そうではないか。宗教的テキストと格言が、似ている

かもしれない。とくに非歴史的という一面において。

 だが、詩には、引用者が自由に選べる、という面がある。ホラ

ティウスの詩である。ホメロスやヴェルギリウスと同様に引用し

たい詩行がふと頭に浮かぶことはあり得るだろう。

 そうやって、ホラティウスのそれぞれちがう詩行が(後代の作

家は、それ以前の作家の著作を読んでいただろうが)ヨーロッパ

の異なる時代、異なる地域に立ち現れる。

 ところでモンテーニュもふくめて、私があげた著作家は、恣意

でないとすれば一様に〈開明的〉であるといえるように思う。ペト

ラルカとヒューマニズム、「近代」をいちはやく捉えたモンテー

ニュ、ルソーとカントの思想の新しさ・・・私の読書傾向はあるか

もしれないがそれだけではない。〈開明〉をホラティウスが支える

のは偶然か。〈共和主義〉には届かないかもしれないが。 

    ここからは、カントを除いて考えてみよう。ホラティウスも加え

   て考えてみる。

    すると、(亡命)ということが、キーワードになるように思う。

   モンテーニュは自分の所領の中の塔への「亡命」かもしれないが。

    反面、〈亡命〉という苦境に身をおいた人物とは思えない幸福

   感が共通する。特定の、お気に入りの土地と家に住まう幸福であ

る。この幸福は、見てきたように、孤独とも親しいものであり、

〈亡命〉とも連続する面もある。

 ただ、ルソーには注意が必要である。シャルメットでもサン・

ピエール島でも土地と家は自分の所有ではなかったし、シャルメ

ットでの幸福は、ママンとの二人での幸福である。

 さらにルソーは、「人間不平等起源論」で所有の問題について、

根本的な問いかけをした人である。少し長いが,「起源論」第二部の

冒頭の文章を引用してみよう。

     所有という観念の発生

 ある広さの土地に囲いを作って,これは私のものだと宣言することを思いつき、

それを信じてしまうほど素朴な人々を見い出した最初の人こそ、市民社会を創設

6-7

 

 

した人なのである。その時に、杭を引き抜き、〈境界を示す〉溝を

埋め、同胞たちに、「この詐欺師の言うことに耳を貸すな。果実は

みんなのものだし、土地はだれのものでもない。それを忘れたら、

お前たち論の身の破滅だ」と叫ぶ人がいたとしたら人類はどれほど多

くの犯罪、戦争、殺戮を免れることができたろうどれほど多くの惨

事と災厄を免れることができただろう。

(「人間不平等起源論」中山元訳 光文社古典新訳文庫)

 どうだろう実にうまい文章ではないか。懸賞論文の

第二部の冒頭にあるのだから、意を凝らしたのは当然かもしれない

が。寓話のような形式をとっているが、所有の根本的な問題性が、

ストンと腑に落ちるようにわかる。中等教育を始めたばかりの生徒

に説明もせず読ませることが出来そうな数少ない文章である。

 この例にとどまらず、18世紀から19世紀半ば過ぎまでの、所有

に関わる文章に明解な表現が多い。例えば、「所有とは盗みである」

(プルードン:19世紀)。やや遡れば、「羊が人間を食う」のように。

 

 どうしてだろう。当時、例えば農民にとっての農地のように等身

大の人間の生活に切実に結びついており、人々がそうイメージしや

すかったからではないか。現在とちがって、知的財産権などすべて  

     に所有が問われるのではなく、大洋など大きすぎるものはふつう、

     公的な財とされていた。

     ここまで連想をめぐらすと、特定の家と土地への愛着が、幸福と

結びつくことが、時代をこえて人間的な営みであると理解できる。