4-1   ジャン=ジャック・ルソーの場合

  

 

多くの著作家がホラティウスの詩を引用している。だが、ホラティウスの詩作品の

 同一の箇所を引用している例は見かけない。

  ルソーは、彼の主要な作品の重要な部分に、ホラティウスの詩の同一の部分を引用している。ホラティウスの詩のこの部分にルソーが大きな意義を見出していたことは先ず明らかだろう。

 

               *

 

   一つ目は、「エミール」。許嫁のソフィーとの結婚を先生(ルソー)に申し出たエミールに先生は、その前にまず色々な国を旅してこい、と命じる。旅を終えたエミールが旅を終えた報告をする場面で、報告の初めの方にこんな文章がある。

   「わたしは、支配と自由とは両立しない二つの言葉であって、どんなみすぼらしい家でもその家の主人になれば、必ず自分の主人ではなくなる、ということを知った。

  わたしが求めているもの、それは、そう広くない一片の土地。(太字は野口)

   私の幸福ということが私たちの探求の理由であったことを私は覚えている。」  

(「諷刺詩」Ⅱ・6より引用、ワイド版岩波文庫「エミール」(下)、今野一雄訳)

 

 

               *

   

二つ目は、「告白」第六巻扉

  「わたしの望みはこれだけだった。適当な広さの土地、

   庭,家のまえに湧く泉、それに小さな木立」(原文はラテン語)

(「諷刺詩」Ⅱ・6より引用、岩波文庫「告白」(上)、桑原武夫訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 4―2

 

 

  まず引用された詩を、鈴木一郎訳「全集」で探してみよう。『諷刺詩』Ⅱ・6

   からの引用であり。題はあるが、誰に宛てたかは、不明である。前31—前30頃

   の作。「田舎ネズミの物語」と題されたⅡ・6の冒頭の連である。題を知って、老若男女の多くは一挙に口元が緩んだのではないだろうか。アイソポス(イソップ)は前6世紀のギリシアの人だが、彼の寓話は共和制末期のローマには、そのあらましが伝わっていたことだろう。

   

    私の願いはこうだった。

    それほど大きくなくてよいが、

    ちょっとした土地が手に入り、

    そこには庭と家があり、

    その傍らには滾々と

    湧く泉と、その上手に

    森でもあればよかったのだ。

    (『諷刺詩』Ⅱ・6 「田舎ねずみの物語」)

 

   この詩行から受ける印象は。ペトラルカの所で引用したホラティウスの詩に相通じる、と読者の多くは思われるにちがいない。歌われているのはサビーナである。詩中の人物アレリウスの口を借りて、ホラティウスは私たちが慣れ親しんでいる童話とも、ほぼ同じ筋書きで、都会のネズミと田舎のネズミの物語を詩中で展開する。もちろんホラティウスは、田舎のネズミの側に立つ。

    ところで、ルソーは、「エミール」で最初にこの詩行を引用する際(1762年)、意識してこの寓話の場面を選んだのであろうか?

   「質素な田舎暮らし」を印象付けるなら、他のホラティウスの詩でもいいはずだ。やはり、ルソーの茶目っ気というか、文人としてのサービス精神であろうか。

  

     「エミール」での最初の引用では、ホラティウスの詩の最初の連の冒頭のこの3行を、エミールの先生への報告の最初の方で、エミールが引用している。

    「わたしが求めているもの、それは、そう広くない一片の土地」

 

「告白」での引用は約8年後、6巻の扉に、最初の一連が全文ラテン語で引用される。

「告白」6巻の本文の最初の行は、ホラティウスのこの詩の2連の最初の部分がや

 

4-3  

 

はりラテン語で次のように引用される。

「これに付け加えて auctius atque Di melius fecere(神は望外のものまでかなえて下さった)ということはできない。」これを否定して,私にはそれ以上のものは

必要でなかった、というところから、実質的に本文が始まる。

   6巻の主題は、「幸福」である。たとえば「一瞬たりとも、幸福は私から去ることはなかった。」6巻の最初の数ページは「幸福」という語で満ち溢れており、そのあとにようやく「幸福」の具体的なスケッチが続く。

    「エミール」での引用でも、詩の引用の次の行に、「私の幸福」という言葉があるように「幸福」はキーワードであるが、『告白』では説明の必要さえない。

   

    ここでルソーの伝記的事実を少し調べると、1762年5月の「エミール」の刊行と1771年の『告白』の公開{刊行には至らない}の間には、ルソーの生涯の決定的な転回点がある。「エミール」の内容が無神論であるとして、パリ高等法院から訴追され、逮捕状も出て追われる身となり、精神も病むようになっていくのである。

 不遇な身の上になって書かれた『告白』であればこそ、若き日の幸福は絶対的な

価値を持ったのだろう。

それぞれの引用場面についてもう少し掘り下げよう。「エミール」での詩句は、エミールの会話文のなかにあり、「支配と自由は両立しない」と「エミー

ルの幸福ということが私たちの探求=旅の理由である」という2つの文を繋いでいる。詩句の詩的イメージを通じて、前の文とも後の文とも繋がっているはずだ。後の文、つまりエミールの幸福との繋がりは、了解しやすい。旅の前に、旅がなぜ必要か、を述べている部分がある。しかし、前の文との繋がりは、明示されておらず、推理が必要である。

 「エミール、幸福にならなければならない。」ソフィーと別れ、2年間の旅を

先生が命じる切り出しの一行はこうである。エミールは、よく覚えていて、そのことが「私たちの探求」である、という部分も忘れていない。「君を幸福にすること

によって自分も確実に幸福になれる」と最初の1行の後に先生は続けている。もちろん、夫婦の幸福は礎である。「エミール」の結びに近い場面で先生はソフィー

に言う、「あなたの夫が自分の家にいて幸福であるなら、あなたも幸福な妻になる」

ということを覚えていなさい」と。  

 田舎の家と幸福、ルソーにもペトラルカにも、ホラティウスにもこの主題はおそらく共通している。しかし、ペトラルカの「孤独生活」と、ルソーの生活への女性の参画は対照的である。このあたりのことは、またあとで述べよう。

 

4-4

 

さて、すぐ前に書いたが。「田舎」についてはこの引用の詩句にはない。しかし、

    肯定されるべきは、田舎であり、農民であることは、エミールの旅以前から明きらかである。その証拠を「第5編」(邦訳では、下巻)からいくつかあげてみよう。第5篇では、先ず女性について語られ、間もなくソフィーが登場し、やがてエミールと出会う。(「下巻」p171)

    

     最初はエミールとソフィーが出会う前のことだ。エミールは生まれながらに、こういった美徳を持っている。本当に良いものを尊重する気持ち、質素な生活、飾らない性質、高潔な無欲、富と驕りに対する軽蔑・・「かれの気に入る娘は遠く離れた片田舎にしか見つからないというのは偶然のことだろうか。」(「下巻」p171)

     第二は、旅の意義について先生が語る場面の中にある。

     「国を形成しているのは農村なのだ。そして、国民を形成しているのは農民なのだ。」「自然に近づけば近づくほど、国民の性格には善なるものが支配的になる。」(「下巻」p249)

     最後は、先生がエミールの報告を受け入れ、エミールとソフィーに諭すように語る熱のこもった文の前半にある。

    「私は、大都会に行って暮らすようにはすすめない。反対に、よい人間が他の人間に実例を見せてやらなければならないことの一つは、田園の質朴な生活、人間の最初の生活、一番平和で自然な生活、腐った心を持たない者にとってはこの上なく心地よい生活だ。」さらに「世間を離れ、簡素な生活を送りながら、エミールとソフィーは、周囲の人々に多くの恩恵を施すだろう、田園に活気を与え恵まれない農夫の消え去った熱意を蘇らせることだろう。」(「下巻」p259—60)

 

  さて、もう一度、引用された詩行に注意を促そう。

    「わたしが求めているもの、それは、そう広くない一片の土地」

     実はこの言葉によく似た文章が、エミールを旅へと送り出す前の先生の文章に一つだけある。

   旅のなかでエミールが考えつきそうなことを、先生が想定する場面である。

     「どこか世界の片隅にある少しばかりの畑、それが私の求めているもののすべてだ。」  

 エミールに答える形で先生は続ける。「そうだ友よ、妻と自分のものになっている畑、賢者の幸福にはそれで十分なのだ。」(「下巻」p224)この言葉には、「しかし」が続く。「富と自由をともに持ち続けることは出来ないのだ」と。(同書p255)

    二年間の旅でエミーㇽはこのことを確認する。だからエミーㇽは先生への旅の報告をこんな言葉で閉じる。「自由で財産家でいられる間は、私は暮らしていける財産をもって、生きていく。財産が私を支配することになったら、私はそれを捨てよう。私には腕がある。それで働いて生きていく。」(同書p260)

    

4-5

 

 富や財産を、「私的所有」と置き換えて言いだろう。「人間不平等起源論」の

第二部の冒頭で、「私的所有」の問題について,高らかに告発してから9年後に

「エミール」は書かれている。

           

              *

 やっと『告白』での引用である。「エミール」での引用が、創作上のカップル、

エミールとソフィーの「幸福」の追求と関連するとすれば、『告白』第6巻扉

の引用は、ジャン・ジャックの命の恩人でもある14歳年上のヴァランス夫人

との、長くはないが幸福な生活の思い出,といえるだろう。二人が「ママン」、

「坊や」と呼び合って過ごしたヴァランス夫人とルソーの幸福な日々の回想は

第6巻の全編にわたって続くわけではない。6巻の半ばには、『告白』執筆時に

はもう亡くなっていたヴァランス夫人の魂に、全てを率直に語ることに、赦しを

乞う場面がある。その直後に、ほとんど総括的な短い回想が来る。「あのなつかしいシャルメット、あの庭、あの木立、あの泉、あのブドウ畑、そして何よりもその人のために私が生まれてき、それらすべてのものに魂を与えている、あの人。」

(下巻p383)何とホラティウスの引用の詩に、一字一句似ていることだろうか、

一人の女性の存在を除いては。

 こんな一日である。「正午前に読書をやめ、食事の用意がまだのときは、友

ある鳩を訪ねるか、庭の手入れをする。私たちは、(略)自分たち二人のことを

しゃべりながら、楽しい食事をした。週にニ、三度、天気のいい日には、家の裏

の木陰の涼しい東屋に行ってコーヒーを飲む。(略)庭のはずれには、もう一つ

小さな家族がいた。蜜蜂である。私は毎度のように訪ねてやり、ママンがいっしょのこともあった。」(第6巻341⦆ママンはもともと田舎が好きで、畑仕事も好きになり出し、借りている土地についている畑では満足できず、畑やら牧場やらを借りた、という。※「私は(疲労の少ない)鳩小屋の世話を好んでするようになった。」p333

最後に、ある植物の思い出を引用しよう。シャルメットでの最初の日、「ママンはかごに乗り、私は歩いて行った。(略)道の半ばあたりでかごを降り、残りを

歩いて行くことにした。歩きながら、彼女は生垣に青いものを見つけて、私に言った.「あら、ツルニチニチ草がまだ咲いてるわ。」(私はツルニチニチ草を見たことがなかったので、身をかがめて確かめもしなかった。)(第6巻p323)後日談が続く。「1764年に友人のデュ・ペイルー氏とクレシエに行った時、

 4-6

 

 

   私たちはある小山に登った。この頂上には、彼の東屋があって、「見晴亭」と

  名づけられていたが、成程その通りだった、当時私は植物採集を少しはじめてい

た。山を登りながら茂みに目を向けていた時、私は歓喜の叫びをあげた。「あっ、

ツルニチニチ草だ。」(事実そうだった。彼は私の大よろこびに気づいたが、その

わけはわからなかった。)再会を果たせないまま、ヴァランス夫人が世を去ったのは

1762年のことである。

 シャルメットでの最初の日の思い出は、ルソーがとくにはっきりと覚えている

という、ママンの名(ルイーズ)にゆかりのある聖ルイの日の散歩の思い出に連なる。

 「昼食後、大木の陰に行き私はコーヒーを沸かすために枯れ枝を拾っている間、

ママンは茂みの中で草花を摘んで遊んでいた。そして途中で私が彼女のために摘

んだ花束の花を使って、ママンは花の構造について珍しいことを色々と教えてく

れた。」(それが大変面白くて、やがては植物学への興味を私に抱かせることに

なる)(第6巻p348)

 ヴァランス夫人から手ほどきを受けた植物学が、幸福を保障する。「孤独な散歩

者の夢想」の中で「私の人生で最も幸福な時期であった」というサンピエール島

(スイス、ピエンヌ湖の中央に浮かぶ)での生活を描いた「第5の散歩」でも植物学

は重要な位置を占めている。

 「陰鬱な書類や書物のかわりに、私は部屋が一杯になるほど花や枯れ草を集めた。

ちょうどその頃から、私は植物に夢中になりはじめていた。(「孤独な散歩者の

夢想」第5の散歩 永田千奈訳、光文社古典新訳文庫p108)

 

 同じホラティウスの詩作品の引用でも、「エミーㇽ」下巻と、『告白』上巻では

引用の活かし方にはちがいがある。なぜ「エミール」では1行だけなのか、その理由

もわかる。『告白』上巻のルソーの青年期の最後を彩るシャルメットでの幸福と、ルソーの死によって中断される「孤独な散歩者の夢想」第5の散歩のサンピエール島での幸福の間には、特定の土地での幸福という事以外にもつながりがあり、また引用した文章の情感にさえ見られるちがいがある。むろんホラティウスの詩はないが第5の散歩はペトラルカのヴォーグリューズに似ているかもしれない。

 ルソーは、「夢想」の各所で『告白』に触れているが、第1の散歩で、モンテーニュ

「随想録」(以下「エセ―」と略)にも触れつつ、「夢想」の『告白』とのちがいについて、こう書きとめている。 「体系化までは望まない。やろうとしていることは、モンテーニュと同じだ。だが、目的は彼の場合と正反対だ。モンテーニュは他者に読ませるために書いたが、私は自分のためだけに書き記す。」(略)。

 4-7

 「『告白』や「対話」を書いた頃の私は、(略)何とか次の世代の人たちに

読んでもらえる形で残そうと絶えず苦心していた。だが、この原稿については

そのような気遣いはない。」(「夢想」第1の散歩p22)

 だが「夢想」は、「最愛の女性、ヴァランス夫人」との「幸福な生活」の思い

出で、わずか5ページほどの第10の散歩で、永遠の中断となって終わる。