自分の苗字が大っ嫌いだった。
「クマ」
学校で、みんなは私のことをそう呼ぶ。苗字が“熊井”だからという、ただそれだけの理由で。きっと“猫田”だったら“ネコ”だったろうし、“鹿内”だったら“シカ”だった。どうせだったら“宇佐見”とかで“ウサ”って呼ばれることができればよかったのに、どうしてよりによってクマなのか。熊なんて大きいし凶暴で、どうにもこうにも可愛くない。
そして、そんな苗字にぴったりの風貌であるお兄ちゃんも好きじゃなかった。
優しいことは間違いないし、私を誰よりも可愛がってくれる存在だというのは幼心にわかっていたけれど、それでも本物の熊かと見紛うくらいのガタイのデカさと粗野な立ち居振る舞い、そしてちっともオシャレに気を配らないでいつだってジャージっぽい格好で平気で出歩くところなんて、絶対に同級生に見られたくなかった。だから家族みんなで出掛けることは極力避けたかったし、止むを得ない場合は絶対にお兄ちゃんとは歩かなかった。サッカーとか野球のようなメジャーなスポーツではないものに夢中なことも、お兄ちゃんを好きになれない理由の一つでもあった。大体歳が六つも離れていて性別も違う兄妹なんて、話が合うはずもないのだ。
だけど、ある日突然、それらはどうでもよいことになった。
大袈裟じゃなくて、本当にそれくらい、私の人生観を揺るがすほどの出会いが、その日にあったから――。
「――岡部先輩! おはようございます!」
私は上擦った声でそう挨拶をし、直角とも言えるくらいに腰を曲げ、深々と頭を下げた。左右に結ったお下げ髪が揺れ、自分の視界に映り込む。
「あ……」
古びた社宅の階段を駆け下りてきた制服姿の少年は、その異様な光景を目の当たりにして驚いたように足を止めた。自分のローファーとコンクリートの地面しか映っていない視界の上の方で茶色い革靴が動かなくなったのを確認した私は、顔を上げると、相手が言葉を発する前に一気に捲くし立てた。
「あの……朝からすみません! 私、岡部先輩のこと好きなんですけど……付き合ってもらえませんか?」
そうしないと、今にも破裂しそうなくらいに激しく脈打つ心臓の鼓動が、私の頭の中を真っ白にしてしまうと思ったから。
昨日から何十回、何百回とシミュレーションを重ねた告白の台詞。確かに言い間違えることはなかった。だが、相手から返ってきた反応は、私が想定していた二つのパターンのどちらでもなかった。
「……ありがとう。でも今受験だから、終わるまで待ってくれる?」
ようやくこの状況を理解したと思われる目の前の少年は、その表情に笑みの一つも浮かべず、やたら冷静にそう告げた。
「あ……はい」
その場でOKかNGの判断が下されるものだと思い込んでいた私は、呆気にとられて相手を見上げた。きっとぽかんと口を開けたままのその顔は間抜けという以外のなんでもなかったであろう、と、後になってから推測する。
「……遅刻するよ」
真っ黒な学生服に身を包み、首にグレーのチェックのマフラーを巻いたその少年は、学校指定のナイロン地の補助鞄を肩から提げて、既に学校へと向けて歩き始めていた。いつまでもその場に立ち尽くし彼の背中を見送っている私に向かって、少年はチラッと振り返り、相変わらず冷静に、そして平坦な声で、そう告げた。
それでもその場で微動だにできなくなっている私は、そのまま彼の背中が小さくなっていくのをただただ見送る外なかった。
一月、冷たい風が吹きつける朝だというのに、不思議と寒さを感じなかった。
こうして、私・相澤桃の生まれて初めての告白は僅か三十秒で終わった――
私は上擦った声でそう挨拶をし、直角とも言えるくらいに腰を曲げ、深々と頭を下げた。左右に結ったお下げ髪が揺れ、自分の視界に映り込む。
「あ……」
古びた社宅の階段を駆け下りてきた制服姿の少年は、その異様な光景を目の当たりにして驚いたように足を止めた。自分のローファーとコンクリートの地面しか映っていない視界の上の方で茶色い革靴が動かなくなったのを確認した私は、顔を上げると、相手が言葉を発する前に一気に捲くし立てた。
「あの……朝からすみません! 私、岡部先輩のこと好きなんですけど……付き合ってもらえませんか?」
そうしないと、今にも破裂しそうなくらいに激しく脈打つ心臓の鼓動が、私の頭の中を真っ白にしてしまうと思ったから。
昨日から何十回、何百回とシミュレーションを重ねた告白の台詞。確かに言い間違えることはなかった。だが、相手から返ってきた反応は、私が想定していた二つのパターンのどちらでもなかった。
「……ありがとう。でも今受験だから、終わるまで待ってくれる?」
ようやくこの状況を理解したと思われる目の前の少年は、その表情に笑みの一つも浮かべず、やたら冷静にそう告げた。
「あ……はい」
その場でOKかNGの判断が下されるものだと思い込んでいた私は、呆気にとられて相手を見上げた。きっとぽかんと口を開けたままのその顔は間抜けという以外のなんでもなかったであろう、と、後になってから推測する。
「……遅刻するよ」
真っ黒な学生服に身を包み、首にグレーのチェックのマフラーを巻いたその少年は、学校指定のナイロン地の補助鞄を肩から提げて、既に学校へと向けて歩き始めていた。いつまでもその場に立ち尽くし彼の背中を見送っている私に向かって、少年はチラッと振り返り、相変わらず冷静に、そして平坦な声で、そう告げた。
それでもその場で微動だにできなくなっている私は、そのまま彼の背中が小さくなっていくのをただただ見送る外なかった。
一月、冷たい風が吹きつける朝だというのに、不思議と寒さを感じなかった。
こうして、私・相澤桃の生まれて初めての告白は僅か三十秒で終わった――
こめかみあたりに吹き出物ができた。
と思ったら、芽になって花が咲いた。
「でも、きれいな花で良かったわね」
花が咲いた朝の、妻の慰めの言葉だ。
髪の薄い中年男の額に咲いた一輪の花。
まるで慰めになってないぞ、と思う。
だが、花を摘むわけにはいかないのだ。
ひとつ花を摘めば、ふたつ芽が出る。
ふたつ芽を摘めば、四つ芽が出る。
四つ花を摘めば、八つ芽が出る。
八つ芽を摘めば、・・・・・・切りがない。
それが、この寄生花の怖いところ。
菊人形みたいになった奴を知っている。
まるで、歩く花壇。
股間にまで花が咲いていた。
美しいものであったが、苦しそうだった。
髪飾りの花、と諦めるしかなさそうだ。