こんにちは。

今日は、近所の善福寺川緑地に花見に行ってきました。
曇り空の中、かなりの人人人。

数年前はこんなに混んでなかったのですが
井の頭公園並みの混み方になっているのは
地元商店街の出店がリーズナブルな価格で出店しているせいもあるのかも知れません。


定番の焼き鳥はもちろんのこと
近所の酒屋さんの美味しい日本酒の出店、フレンチ、インドカレー、トルコ料理、種類も盛り沢山!

ここ数年は平日に花見へ行っていたので、こんなに出店が充実しているとは、びっくりです。





曇り空なので、桜の写真写りはいまひとつですが、それでも、満開で散っていく桜を眺めていると、様々な光景を思い起こします。



私の祖父がまだ生きていた時にに最後に見た桜。
もう、8年ほど経つのに記憶が蘇ります。


その頃の祖父の意識は、まだらぼけのような
はっきりしない意識の状態だったと思うのですが
花見に連れてきた瞬間に、祖父の感性が開かれていくのが分かりました。
淀んでいた目が、たちまちに憂いを含む目つきにみるみると変わっていくのです。


それは、一度、意識が薄らいだ人が、もう、戻らないという
勝手な概念を打ち破るには十分で


満開の桜の下、はらはらと散る花びらを見て
吸い込まれるようにして桜を魅入る
感性が研ぎ澄まされていく祖父を目の当たりにします。


「ああ、もう十分だ。これで桜も最後だ。」


と涙ながらに話していた祖父。


「そんなことないよ。また、来年も来ようね。」


と、その時は、付け焼刃のように答えたいた私でしたが
それは、遠くない未来に現実となることは、どこかで分かっていたようにも思います。


桜は、既存の概念や世代の境界を超える不可思議な威力があるように思うのです。


今でこそ、この時の心境を代弁してくれる詩があります。

さくら


ことしも生きて

さくらを見ています

ひとは生涯に

何回ぐらいさくらをみるのかしら

ものごころつくのが十歳ぐらいなら

どんなに多くても七十回ぐらい

三十回 四十回のひともざら

なんという少なさだろう

もっともっと多く見るような気がするのは

祖先の視覚も

まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう

あでやかとも妖とも不気味とも

捉えかねる花のいろ

さくらふぶきの下を ふららと歩けば

一瞬

名僧のごとくにわかるのです

死こそ状態

生はいとしき蜃気楼と



茨城のり子「おんなのことば」より「さくら」


近年、こんなにも、詩の言葉や絵本の言葉に
深く染み入ることはありませんでした。


私自身が遅咲きなのか、やっと詩の深さに追いついてきたのか
桜を巡る瞑想はまだまだ続きそうです。