時は秋葉原がこうして観光地化する前夜の2000年代中盤
私は都内西部の私立学校の高校の生徒だった、確か2年生の春だったと記憶している学生とはいえ、その頃の私は自分の学校にかなりの不満を抱えていて、大学受験への準備を理由に中学の頃から嫌々続けていた吹奏楽部を退部し、学校自体理由をつけては早退して街をぶらぶらしたり、悪友たちとサボって遊びまわったりしていた。
しかし高校生の小遣いでできる遊びなど高が知れていて、ウィンドウショッピングどころか徘徊高校生と化していた私は大方の悪事に手を染めあぐね、ましてやこの学校の校則というのがバイクの3ないはもちろんのこと、アルバイトが発覚した時点で退学という時代錯誤極まるものだったために大変暇を持て余していた。
そんな中、世の中はIT革命華やかりしご時世、2021年までオリンピック担当大臣だった当時の森首相が「イット革命」と名打ってブーイングを浴びたりホリエモンたちニューエイジのIT起業家が盛んに「パソコンも使えないような人間は滅びて然るべきだ」と喧伝して憚らなかった時代である。
中学校3年生の頃から自作パソコンを覚えた私は、休みになるたびに秋葉原に出かけてはその当時まだ暇そうだった秋葉原のジャンクショップの店員を捕まえては根掘り葉掘りパソコンを安く組み上げる方法を聞き出しては使いもしないパソコンを組み上げ、高校生になる頃には4000〜5000円で作ったパソコンを友達に売りつけるという小遣い稼ぎに精を出していた。その趣味も行き着くところまで行きつき64bit PCIのSCSIポート付きのサーバー用マザーボードで遊んでいたような頃、はっきりした時期を思い出すことはできないが秋葉原を歩く私の”視線”にある変化が訪れた。
以前であればCPUはもちろんのことマザーボード、メモリ、ジャンク扱いのPCケース等を意味もなく探し歩いていたのだが、その頃からの私は特にキーボード、それもPC-98とあまり世代差のない時期のものを探して歩くようになったのだ。
当然ながらその当時のそういった「レトロキーボード」の値段など二束三文で、ジャンク屋に顔を出すと必ずと言っていいほどプラスチックケースの中に収まったAppleのEnhanced KeybordⅡが一枚100円だったり*2021年時点では静音軸のスタジオモデルですら5000円を下らない ソケットをよくみるとAT規格のキーボードがゴロゴロと転がっていたものだった、この頃のメカニカルキーボードといえば生産は完了していたものの主流はもっぱらALPS電機製のスイッチを使用したものだったとはいえBigfootは徐々に高級機の風格を漂わせ始め、朝から学校をフケてジャンク屋を回ろうともいっかな見つからないことも稀ではなくなってきていた。
*この頃末広通り沿いにある「魔術」を扱う店のカゴの中からたまたま見つけ出したキーボードがとんでもないお宝だったと言う珍事が発生し、その後のキーボード蒐集にあらぬ展開を呼ぶのだがこれはまた別の機会に。
ところで、ジャンクパーツでパソコンを組んではOSをインストールして売り捌く21世紀のマイコン少年がなぜ突然キーボードに目覚めたのか、これは自分の中でも諸説あるが一つはそれから遡ること2年、中学校で廃棄されたキーボード(今思うとLEXMARKかUNICOMPのModel-Mだったように思う)を先生から譲ってもらったことがきっかけだった、譲ってもらった当時はキーボードが統一規格を持って作られていることも知らず、英語配列だったModel-Mのキーと入力が一致しないことに悪戦苦闘したり、飽きてそのまま朝までFLASHを見て寝坊し、親と先生から大目玉を食らったりという有様だったが、通りいっぺんのことは大半この頃に吸収した。思えば「パソコン」への憧れの入口はキーボードだったのだ、私の幼少期といえば「電子機器」の描写はオペレーターが目にも止まらぬ速さでキーボードを叩くという紋切り型の表現だったこともその傾向に拍車をかけたのかもしれない、ともかく秋葉原を歩いているうちに、私の「IT」の感性は徐々にスタートラインへと回帰していたのだ。
その当時秋葉原の街にジャンクキーボードが溢れていたのは先にも触れたが、そのうち私の舌ならぬ指は加速度的に肥え始め、キーボードの知識を収集するようになって三ヶ月と待たずにメンブレンキーボードを忌避するようになった、学校の情報の授業にキーボードを持ち込み先生を差し置いて一席ぶった記憶もある。
すると、次には目指すのは「名機」である、これは悲しきオタクの性だ。
オタクのテンプレートに「量産機に駆逐された高性能な試作型」への憧れというものがあるが、これは常々「バグフィックスの効いた量産型の方が現実では高性能である」というツッコミが入るところまでが定形として認知されて久しい*おそらく柳田理科男の影響だろう
しかしこの頃の秋葉原の事情は少しこのテンプレートとは趣を異にしていた、例えばPentiumⅢとPentium4の一件は当時の秋葉原の空気を吸った人間ならばいまだに記憶に新しいだろう、大量のリースアップ品として街にばら撒かれたPentiumⅢはまさに「企業の陰謀によって主力の座を追われた高性能機」の構図そのものだったのである、若きオタクを拗れたメカフェチに変質させるには十二分の檜舞台であった、御多分に洩れずキーボード界隈にもその構造は存在した、まだパソコン自体が高価で付属品にもコストが割かれていた時代のキーボードたちが「IT革命」でソ連軍の如くなだれ込んだ粗製濫造のキーボードたちに駆逐されつつあったのだ、いわば秋葉原とそこにあるジャンク屋はそういった「精鋭」たちの最後の砦であり、彼らは自分の価値をよくわかっているスキルプレイヤーのピックアップを今かいまかと待ち侘びていた。少なくとも私が足しげく学業を放棄してまであの街に通い詰めたのにはそういうカタルシスを求めていたフシがあった。
そして、そんな精鋭たちの「最終防衛拠点」は今も昔も中央通りには一切存在しなかった。たいてい雑居ビルの地下、個人経営の卸業者、あるいは倉庫の放出イベントが行われるブースで彼らは会心の友と別れ次の任地へと旅立っていったのだ。
そんな最終防衛拠点たる店の一つに当時「ネオテック」というキーボード専門の個人商店があった、入り口のサッシのガラス戸にはCherryとTopreのロゴマークが燦然と輝き、そこが当時珍しかった「高級キーボード専門店」であることを物語っていた。店は間口から縦長で左右にガラス張りのそっけないショーケースがあり、そこには2万は下らないキーボードたちが蛍光灯の光を身に受けながら所狭しと展示されていた、店の奥まで行くとカウンターがありその奥に店主の男性が座っている、当時でも50代後半であっただろうその店主の男性の話を聞くことが当時の私の何よりの楽しみだった、話題は多岐に渡り本物の「勉強」というのはああいうものを言うのだと言う姿勢はいまだ持って変わっていない、暗記は勉強ではない、その男性の語るその店の歴史やキーボードの趨勢から時にはお説教まで、今の秋葉原で金を落とさない冷やかしの子供にあそこまでがっぷり四つで稽古をつけてくれる「大人」はいないか、あるいはSNSで皮肉屋の肴にされるのがいいところだろう。それほどに私の人生は「ネオテック」抜きにして語りがたい。
続く