3日前の夜。
21時過ぎであったろうか。
自宅の電話が鳴った。
「ああ、すいません。○○と言います。はっちさん(仮名)ご在宅ですか?」
関西なまりの元気な声だが、酔っ払った勢いでかけていることは、
長年の経験からすぐにわかった。
「どちらさんだい?」
「私、○○小学校の卒業生で、はっちさんと同じクラスだったんですが。」
「○○?おお、おお、おお。覚えてるよ。元気?」
「なんだ!はっち!久しぶりぃ!今さ、新宿で同窓生と飲んでんねん。
噂でな、東京におるって聞いてな、実家に電話したらな、携帯教えてもらえる思ってん。(たしかこんな口調だった)」
「ああ、2ヶ月に一回、10日間は東京だよ。」
「ちょっとちょっと待ってや。今みんなにかわるよって。」
と、6人ほど集まってる同窓生に片っ端から代わり始め、
短い身の上話を聞いた。
みんな、結婚して子供も居て、それなりのポジションで働いていた。
「で、はっちは今何やってんの?結婚は?子供は?」
人間というものは、本当に不思議なもので、
自分の暮らしや、共通した何かを持つ人数の絶対数から、
すなわち、「普通」という陳腐な答えを導き出し、
更にこちら側に引き込もうとする習性がある。
「結婚なんかしてないから、当然子供もいないよ。」
「そんで、実家暮らしか。」
「ああ、実家でできる仕事をしてるが。」
「どんな?」
「そんなに俺に興味があるのか?」
「だって、小学生の頃はっちは秀才だったやんか。」
「みんな本当は秀才で、凡人なんだよ。
子供だからそれに気づかされないでいただけ。」
「で、何やってんの?」
「生活保護で食ってるよ。
・・・って言えば、お前ら一番喜ぶんだろ。そういうことにしておけよ。」
「なんやそれぇ。」
「いいか、○○。何やってるかを基準に生きてるのは、お前らの社会で、どう生きているかが基準なのが、俺の世界。だから、そもそもそれぞれが違う立場で生きているっていうことをわかりきった上で付き合うのが、人間だと思うが。だから、何をしていようが、生きているってことがなによりだろ?お互いに。」
「・・・とにかく・・・とにかくな、東京今度くるときは必ず電話かメールせぇや。」
「ああ、おもろい話、出来そうやな。」
正直、もっと気の利いた言葉を投げかけてもよかったのだと思う。
でも、残念ながら、僕らの世代は中途半端に豊かで、
中途半端に要領よく生きてこれた時代だったのだ。
だから、それが今でも当たり前に考えてしまう同期が実はとっても多い。
それはそれで、かわいそうだと僕は心から思う。
うまく渡り歩いている友は、どこか見下すことを喜びとし、
そうでない友は、自分がダメな人間だと決めつけ、
関わりさえ持たないか、あるいは自ら命を絶ってしまった者もいる。
でも、僕の知る限り、7割以上は、うまく歩けていやしない。
自分のせいだと言えば、それまでだが、
少なくとも、時代や世相といった環境が、人ひとりの運命や生き方を変えるのは、
赤子の手をひねるくらいに、簡単なことだ。
手をひねられた赤子は、ひねられたまま大人になるのだ。
要するに、人の人生の9割は、「運」で出来ていると、
僕は思っている。
「運」は占いやなんかで決定づけられるものではなく、
人間全てが持ち合わせている、「氣」のもって行き方と、
戦略をそもそも表す言葉だ。
だから、しんにょうに「軍」と書くのは、戦い方とその場所を示すからなのだ。
そんな僕も、彼らの言葉を聴いて、
年だけとってなんにも変わっていやしない。
俺は、ダメだ。
と、自責しようと思えば、いくらでもできる。
けれど、そんなところに自分への救いなんて有りはしないのだ。
「○○○○でググッてみな。はっち」
と、メールした。
さきほど返事がきて、
「お前、相変わらず驚かすのが好きだな。応援するよ。」
人間ってのは、ほとほと困ったもんだ。
だから、かわいいのだけれど。
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