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ことだま

二児の母。人生に迷子になった時に出逢ったのが断捨離でした。日々のつれづれを書き留めていきたいと思います。

「お母さん。クラスで一番可愛いお弁当作って」

目を輝かせながら私に頼んできたのはピカピカの一年生の娘。

そう、明日は新しくできたお友達と一緒に行く遠足の日だ。

みんなとピクニックマットの上でランチを広げる。

…そりゃぁ、可愛いお弁当がいいよね。

 

…が、しかし。 知らんぞ、私は、キャラ弁とかは。

そう、このわたくし、実はアメリカ歴20年以上の浦島花子。

テキトーにランチを詰める国で暮らして来た私には、可愛いお弁当とか、「エクスキューズミー?」の世界で

作り方とか分かんないし、グッズも持っていない。

 

だけど

娘の澄んだ目には「No」とは言えない。

 

オロオロしていると、小4の息子まで言い出した。

「僕、おにぎりとウインナーと唐揚げが食べたい。」

 

え。それをお弁当に入れるの、どうやって?

 

…お弁当を作るのに、冷や汗が出るなんて知らなかったぞ、私は。

 

…必死だった。

必死に作りましたわよ、奥様っ!

でも、不器用にしか作れない。可愛いお弁当なんて作り方わからない。

そもそも料理苦手だし。今日も残業いっぱいあるし(つまり時間が…ない。)

100均で可愛い小物を買って来て、なんとか誤魔化した。

100均が神様に見えた、そんなお弁当作りでした。

 

大変やったけど…

「作ってあげた」んじゃない。私はきっと、「作りたかった」。

 

明日、晴れますように。

 

 

野原一面に咲く野の花

それを、9歳の息子と7歳の娘が、それはそれは一生懸命に摘んできてくれる。

「お母さん、はい!」

 

小さな手に抱え切れないほどの花束。

それは暖かいお日様の香りがして

そして、どこの花屋の花よりも綺麗で

私の心を包んでくれる。

 

子供らは、どんな気持ちで

毎日お花を摘んでくれるのかな。

 

それを小さな小瓶に入れては、

私は家中の至る所にそっと飾る。

 

子供らの花束は

世界一の花束。

お母さんの子供に生まれて来てくれて

ありがとうね。

 

お母さんは

幸せです。

 

Moderate とは、簡単に言うと、「ほどほどに」という意味だ。

なんでも、「ほどほどに」がいい。

お酒も、恋も、セックスも、運動も、なんだって、「ほどほどに」。良かれと思うことだって、ハマるのは良いけれど「ほどほどに」がいい。適度に、moderateに。

 

断捨離をはじめて3年が過ぎようとしている。

久々に、何かにハマった感があった。

同じように断捨離にハマっている人と話すと、盛り上がるのも分かる。

 

だけど、盛り上がりながらも思うんだ。

modarateって大事やなって。

 

断捨離は素晴らしいと思うし、私自身、恩恵もいっぱい受けてきた。

だけど、ハマりすぎるが故に、断捨離の恩師として仰ぐ人が「教祖」になってくると、

かなり危なくなる。(注;その先生が自ら教祖となるのではなく ーまぁ、それもやばいがー、信仰する人がその人を教祖として仰だす、という意味です。)

 

「彼女がこう言っている」

「彼女ならこうした」

そこまではいい。だけどそれが、「だから、これは正しいんだ。彼女が言ったから」になると、

途端に「ん?」となる。

 

断捨離は素晴らしいけれど、全てをその尺度で見出すとあかんでしょ。

いろんな人がいての世の中。尺度はひとそれぞれ。

断捨離は、あくまでも「幸せになるための手段のひとつ」であり、「全て」ではないように思う。

これも私の尺度だと言われればそれまでだけれど。

 

断捨離を語る上での「自分軸」も、これがなかなか難しい。

自分軸は、時として「わがまま」「勝手」に変身する。

自分軸は分かったから、他者を攻撃するのはやめてくれ、と思う。

…私は今、きっと、そう感じているんだろうな。

放っておいて。自分軸?分かったがな。 me, me, me, me いうのが自分軸なら

私はそんなもん、いらんと。笑

 

いやいや、言い過ぎですね。パーソナルに、取りすぎですね。修行が足りませんね。

 

ただね。

何事もmoderate「ほどほど」を忘れると

誰かを攻撃しだし

誰かを悲しませる。

幸せになる手段のはずなのに

宗教と同じで、争いや憎しみを生み出してしまう。

そんな気がします。

 

moderate 

 

なんていい言葉なんだ。

 

 

 

 

お母さんのお腹に一度は宿ったものの
その後お空に帰ってしまった赤ちゃんは
きっときっと同じお母さんのもとに戻ってくる。
赤ちゃんは、お空に忘れ物をして取りに行っただけで
きっときっと
戻ってくる。

戻ってきたら
「おかえり」って迎えてあげよう。

おかえり。
やっと やっと あえるね。
ずっと ずっと まっていたよ。

今度は絶対に離さない。
この手にあなたを抱きしめるからね。

愛しています。

かけがえのない、私の赤ちゃんへ。


ストレスと不妊…

永遠のテーマかもしれないですね。

不妊時代、色んな人によく言われました。

「ストレスは良くないよ。妊娠しづらくなるよ。」

「ストレスをためないように、気分転換して。」

…ストレス発散法の本を頂いたこともあります。


私なりの結論から言いましょう。


ストレス?


そんなの関係ねぇぇぇーーー

(古っと思われた方、大変失礼いたしました。)


いや、関係ないとは言い切れないのですが、

不妊の問題に直面していること自体が「ストレス」以外の何物でもなく、

このストレスから逃れよう、逃れよう、とすることの方が

ずっとずっとずーーーーっと ストレスになってしまうように思うんです。


小さな生命(いのち)は、ある日突然びっくりするようなタイミングでやってきます。

私の場合、体外受精に撃沈し、泣きまくって目が腫れて、

今までに感じたことのないようなストレスに遭遇した月に、

コウノトリがいきなりやってきました。


私の仲良しの友達は結婚して10年以上経つのですが、

旦那さんと今までしたことのないような大喧嘩をし、

もうちょっとで離婚しそうな勢いだった月に、

数年の不妊すら嘘のように、いきなり妊娠しました。


なので、ストレスは関係ない…とまでは断言しませんが、 そこまで関係ないような気もするんです。

大切なのは、ストレスをためない様に、ためない様に、という努力をストレスに変えるのではなく、

ストレスを感じてしまっている自分のことを、いたわってあげることです。


不妊治療をしている女性はみんな必死。

みんなみんな、毎月毎月カレンダーとにらめっこし、

血液検査の値に一喜一憂し、

来てほしくない生理に涙を流し、

いつか出逢える我が子を夢見ています。


お金のかかる治療だから、ひょっとしたら何かを節約し、我慢しているかもしれない。

治療のスケジュールに振り回されるから、仕事の調整をしたり、

行きたい約束をキャンセルしなくちゃいけないかもしれない。

そう、そんな「あなた」は頑張っている!

だからね、あまり「ストレスをためないように」なんて考えなくてもいいんだよ。

ストレスがたまりすぎたら、「こんなときもある。だいじょうぶ。」って5回唱えてください。

「だいじょうぶ」って。

ほんと、大丈夫だから。

あまり思いつめないで下さいね。


だ い じょ う ぶ。

ここぞという時に会いたくなる人がいる。

その人と会うと、元気になれて、笑顔になれて、「よし、頑張るぞ」って思える。

…あなたが今思い出した「その人」に

「ありがとう」と伝えよう。

きっとその人も

あなたのその一言で元気になれて、笑顔になれて、「よし、また頑張るぞ」って思えるから。




もしもあなたの心を乱す人がいたら

もしもその人の言葉であなたが深く傷付いたなら

目を閉じて

深呼吸して

その言葉を発してしまったその人の心に少し目を向けて

「傷ついたのはこの私」は少し置いておいて

複雑な人間関係も置いといて

「自分」を置いといて

何がその人に、その言葉を言わせてしまったんだろう。

余裕がなかったのかもしれない。

その言葉を発する自分に酔っていたのかもしれない。

あなたに嫉妬していたのかもしれない。

または、「自分で何を言っているのか分かっていない」のかもしれない。


人は少なからず、「人に認められたい」という願望を持っているものです。

あなたを傷付けたその言葉を発することで、それに悪意があろうともなかろうとも

その人は、あなたに認められたかったのだと思う。



誰かが誰かの心を傷つける時、ほぼ100%の確率で、

傷付ける側の心は、すでに乱れてる。

今あなたが思い出している「その人」は、

実にその人自身に、大きな大きな問題を抱えていて、

あなた以外の人も傷付け、

今を生きています。

その人が笑っていようが、幸せそうに見えようが、潤分満帆に見えようが、

またが逆に、いつも怒りに満ちた気難しい人であったとしても、

ほぼ確実に、実はその人の方が、心の闇を抱えているものなのです。




と、私は思う。

「デリカシー」について考える。

不妊問題に直面してからというものの、ずっと私にとって気になっていたこと、それが「デリカシー」。


世の中、色んな人がいます。

不妊問題に直面している人。

何か身体的な病気を患っている人。

心の病と闘っている人。

身内の人が上記の問題を抱えている人。

そういった心身の問題だけではなく、仕事や恋愛、人間関係など、

色んな悩みを持った人が、この世には五万といます。

…様々です。


…私は、どんな人と出逢おうとも、「問題を自分からは聞かない」ようにしています。

「問題を自分から聞く」ことは、お医者さんやカウンセラーなどのプロの人が仕事の一環で行う以外の状況では、「自分の興味心を満たす」こと以外の何物でもないからです。


問題を抱えている人に対して、その人から相談されていないのにも関わらず、

「何があったの?」

「どうして言ってくれないの?」

「私は心配しているだけよ。さぁ、話して。」

から始まる質問の多くは、大概その人を深く深く傷付けます。


「デリカシー」と言うか、優しさに欠けている様にも思えます。


人が抱える問題を自分から聞く前に、一歩下がって考える。

何故自分は、その人の問題を聞こうとするのか。

それは、興味本位からではないだろうか。

その人が話そうとする前に自分から聞いて、

自分に一体何が出来るんだろうか。




私も、不妊問題にぶち当たったときに、いろんな人と出逢いました。

その時に、人の優しさにも触れましたし、逆に「デリカシーのなさ」も見てしまいました。

(いや、後者は一人だけやけど・笑)


だけど思う。

私は、それまでどうだったろうか。


私は、人の痛みを分かろうとする人間だっただろうか。

私は、ズケズケと人の心に土足で踏み込んだりはしなかっただろうか。


再び、「デリカシー」について考える。

それはきっと、

人を理解しようと努める優しさに付随する。
















人には二通りいる。強烈なエネルギーを放ち、他の人のエネルギーの影響を全く受けない人。
または、自分のエネルギーを持ちながらも、周りのエネルギーに影響を受けやすい人。

…多くの人が、後者だと思う。私は、間違いなく後者だ。

だから、努めて良いエネルギーの人と一緒にいようと思う。良いエネルギーと言うのは、簡単に言えば、その人にとって、一緒にいて穏やかな気持ちになれる人、つまり「気(=エネルギー)の合う人」なんだと思う。
自分はポジティブだと信じ、ガンガン笑顔で過ごしているからと言って、万人にとってその人が「良いエネルギー」だとは限らない。(そうそう、いるでしょ、そーゆー人。)

また、エネルギーは、エネルギーを呼ぶと思う。引き合うと言うか、「惹き合う」と言うか。

私は、エネルギーが自分で「落ちているな」と感じるとき、自分を負の連鎖に引き込む人と会いやすい。または、自分のエネルギーが落ちているから、その人の持つ負の連鎖に引き込まれてしまうんだろうか。
まぁどちらでもええけど、つまりエネルギーは、引き合い、惹き合う。(たまに「轢き合う」笑)

昨日からどうもエネルギーが落ちているような気がして、今日になって納得した。
エネルギーが落ちているときには、会ってしまうんだよね、会わんでよいヤツと。

でもその後、強烈にエネルギーが強い人(というか、他者から影響を受けにくい人)に叱咤激励されて、
なんか、エネルギーが戻ってきたように感じた。(こういうのを「単に純粋、単純」と言う。)

その、私を叱咤激励してくれた、強烈にエネルギーの強い人ははっきりこう言いました。
「俺が出張行ってておらへんから暇なだけや!暇なときは人間アホなことを考え出す。
そんな暇があったら寝ろ!!!!」

さようごもっとも。
さぁ、寝るぞ。
おやすみなさい。
アメリカで、主人しか頼る家族のいない子育てをしていると
たまに本当にイッパイイッパイになってしまう。

そんな時に、いつも思い出すのが不妊の時期。

あの時、心底自分の子を胸に抱きたかった。
3度に渡る流産は、その度に涙が枯れる程泣いた。

だから、大変でも我が子のいる「今」に感謝できる。

私は弱くてわがままだから、しんどいことがあるとすぐにめげてしまう。
だから神様が、大変な海外での子育ても乗り越えていけるよう
私を強くするために
不妊の時期を与えてくれたんだ。

今、目の前にある「当たり前」は、当たり前なんかじゃない。

日々感謝して生きていこう。