ことだま

ことだま

二児の母。人生に迷子になった時に出逢ったのが断捨離でした。日々のつれづれを書き留めていきたいと思います。

今から思えばだけど…

 

喧嘩の理由って実は

「これが理由で喧嘩した」と思っているもの、そして思われているものとは、多少違う時がある。

 

私が「あの人」から離れていった理由は、

「あの人」から言われたことが原因では決してなかった。

言われたことは、マウント感満載のひどいことだったけれど、

その背後に色々とあって、そして他に理由があって、

その発せられた言葉が、導火線となった気がする。

 

私は、いつからか覚えた違和感を

上手にぬぐうことができなかった。

仲はよかったけれど

表面的だった気もする。

だってあんなにそばにいて

あんなにいろんなことを話してきたのに

私は

一番悩んでいた時、その苦しみを

彼女に打ち明けたことは決してなかった

時間がたってからも私は

彼女にはいえなかった

 

何かが怖かった

何かが私を止めた

何かが私にブレーキをかけた

「この人に話しちゃダメ」と

 

今から思えばきっと

近いと思っていたその関係は

実は、ある一定の距離を保ちながら初めて安定する関係で

それが近づきすぎて、平衡を保てなくなった時、

彼女の発した言葉で

我慢にも限界がきたんだと思う。

 

「本当の喧嘩の理由はね」なんて

もう話すこともないけれど

「わかってもらいたい」という気持ちが消え失せた今

きっと彼女にも

「これが原因」と思う以外の原因が

あったんだろうなと思う。

 

 

 

 

 

こちらアメリカでも、今日から子供らの学校が始まった。

それはそれは楽しく友達と遊び倒した夏休みを終え、

「早起きしたくなーい!」とか言いながらも、2人とも元気いっぱい登校していった。

友達と会いたいんだと思う。

 

私は朝からブラジル人の友人とジムに行き、クラスが始まるまで彼女との弾丸トークを楽しみ、そしてクラスでは一緒に思いっきり汗を流した。久々のジムは、私をゾンビのように疲れさせたけど、ストレスの全てが汗と共に流れて行った気がする。

そして誰もいない家に帰ってから、ペットのインコを肩に起き、スムージーを飲みながら、ぼちぼち仕事を始める。

 

なんてことのない、平凡な日常が戻ってきた。

そして私はこの日常が恋しかったんだと言うことに、

改めて気付かされる。

 

パソコンを開き、ぼちぼちと仕事を始め、

忙しいけど穏やかで平和な日常が、とてつもなくありがたい。

 

結婚前に主人が言ってた。

「平和、平穏、平凡がいいんやで」

 

そうかもしれないな。

私を取り巻く全ての事柄、人、環境に「ありがとう」。

 

 

 

 

 

 

 

わたしには10歳の娘と12歳の息子がいる。

5年前に断捨離に出逢う前の私は、子供達の友達を家に招待できなかった。

子供たちも、敢えて招待しようとは決してしなかった。

 

わたしも子供たちも、

勇気がなかった。

後ろめたかった。

見られたくなかった。

比べられたくなかった。

我が家はそのくらい、小さくで古いお家だ。

 

私たちが住んでいる地域は、NYから少し離れた郊外の白人地域。当然、お金持ちもいっぱいいる。

みんな綺麗で大きいお家に住んでいて、

家によってはプールもあって。

 

だけど我が家は違う。

築100年の小さなボロ家。

この小さな町で、きっと一番小さなお家。

そして5年前はそこに、物がひしめき合っていた。

まるで、わたしの自信のなさを、ガラクタで埋めるように、そして覆い隠すように、大量の物たちが、部屋中に転がっていた。

 

ご縁あって始めた断捨離は、

そんなわたしの全てを変えた。

最初は少しずつしか捨てられなかった。

だけど次第に速度と度胸が加わっていった。

葛藤もあった。悩むことも。

だけど、わたしにはささやかな願いがあった。

 

「子供らが友達を招待できるような家にしたい。」

 

今も、私たちは町で一番小さな家に住んでいる。

家の古さもピカイチだ。

だけど、子供らは堂々と友達を連れてくる。

リビングでひしめき合っていた物たちは全て消え、

本当に必要なものしか置いていない、そして掃除の行き届いた部屋は、子供らの友達の間でも、「綺麗なお家」と言われるようにまでなった。

 

わたしは、自分の自信のなさや不甲斐なさを、

家のせいにしてきた。

小さな古い家に住んでいるから、「だから自信がない」と。

だけど、それは違った。

そこじゃないんだ。

 

 

家が小さくても

古くても

そこにある澄んだ「空間」は

わたしだけじゃなく、来てくれる人みんなの

憩いの場となった。

 

今日も子供らが友達を連れてきた。

意外にも、

遊んだ後は皆がちゃんとおもちゃをしまっていく。

まるで、その澄んだ空間を大切にしてくれているように。

 

そして今わたしは

お気に入りの真っ白なティーカップに

大好きなダージリンの紅茶を入れて

このブログを、とても穏やかな気持ちで書いている。

 

 

 

 

 

 

今日は早朝から仲良しのミラ(近所に住むブラジル人の友達)とジムに行った。

仕事が死ぬほど忙しいからどうしようかと一瞬悩んだけど、

昨今溜まりまくっているストレスを放出したくて

時間を作って筋トレに挑んだ。

 

モヤモヤモヤモヤと、やれ仕事のこと、子育てのこと、家の改築のこと、人間関係のことで悩んではいたけれど、

彼女に悩みを打ち明ける気はなかった。

 

だけど彼女から、育児の悩みを打ち明けられた。

彼女も悶々と悩んでいたようで

吐き出すように、わたしに打ち明けてきた。

 

「ミラだけじゃないよ、わたしもだよ。」

本当にそう思ったわたしは、育児の悩みを彼女に少し話した。

思春期に差し掛かっている息子とぶつかってしまうこと。

反抗期だとわかっているのに、反抗されたらムカつくこと。

口も達者になってきて、言い返せないこともたくさんあること。

すれ違ってしまうこと。

声を荒あげてしまうこと。

 

ミラは、「わたしだけじゃないのね!」と急に元気になって

自分の身に起こったことを次々に話し出した。

 

「ありがとうね、わたしだけじゃないって分かって、

本当にすっきりした」

彼女はそう言って、ヒマワリのような笑顔をわたしに見せた。

 

違うよ、ミラ。

わたしの方が、あなたに「ありがとう」なんだ。

わたしはここのところずっと悩んでいて

イライラしていて、そして孤独だった。

1人でずっと抱え込んでいた。

 

人に話すと、こんなにも楽になるんだね。

 

「話す」は「離す」、そして「放す」だ。

心の中から離れていく、そして放っていくモヤモヤは

あんなにどんよりしていたのに、意外とフワフワと

青い空に消えていった。

 

そしてわたしは

少しだけ

なんだか優しい気持ちになれた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出逢いと別れの詰まっためまぐるしい春が終わっていった。

季節がめぐり変わるように、人も、それを取り巻く環境も変わっていく。

嬉しいことも辛いことも、日々の中には詰まっている。

 

私はひたすら断捨離を続け、

ものとの関係を模索しながら、「自分」とも見つめ合った。

本当はどうしたいのか。

私は何に「快」を感じ、何を「不快」を感じるのか。

そして、何に向き合い、逆に何に目をそらそうとしているのか。

 

面白いことに、ものと向き合い、徹底的に自分の「快」「不快」をベースに、ものを手放していった。

それは何故か引き出しにしまいこんでいたいらないペーパークリップから始まり、昔は大好きだったのに、今は心躍らない陶器だったりもした。

 

そして私は先月、今は一緒にいるべきではない友達と、距離をおいた。

離れた方が、お互いのためだと思った。

 

 

でも、そうして断捨離を続けてきて、

ここ数日、なんだか「詰まり」がドドッととれて、

いろんなことがスムーズに動き出した気がする。

 

…新しい出逢いと、大切にしてきたご縁と、素敵な仲間たちとの楽しい時間が増えた。

家の中を、好きなものだけに囲まれているご機嫌な環境にしたら、思いがけないゲストがやってきた。

そしてずっと連絡をとっていなかった、だけど心から尊敬していた人から、ふっとメールが届いた。

全く期待していなかったところから、新しい仕事のオファーが届いた。

 

なんだろう。

何かが、ワクワクするような形で、動き始めている気がする。

 

さぁ、今日も、

自分の心と向き合っていこう。

それは、身の回りにある「もの」を選択していくこと。

むやみに「もの」を増やすのでも減らすのでもなく、

ただただ心に忠実に、「今の自分」と響き合うものだけを選んでいく。

 

続けていこう、これからも。

 

 

 

 

「それってあなたの承認欲求?」と、ドヤ顔で人に言えるお方の心理を考察してみた。

1. 相手をコントロールしたい心理

この言葉には、相手の発言や行動を「承認欲求」という一言で片づけて、価値を下げる意図があることがあります。相手の動機を「低次元な欲求」として定義づけることで、会話の主導権を握ろうとしているのです。


2. 上から目線・批判的態度

「承認欲求」という言葉は、時に軽蔑的なニュアンスで使われます。これを口にする人は、暗に「私はそんな低い動機で動いていない」とアピールしている場合があります。自分のほうが精神的に成熟しているという優越感を示したいのかもしれません。


3. 自分自身も承認欲求に敏感な人

実は、他人の承認欲求に敏感な人ほど、自分自身の承認欲求にも悩んでいる場合が多いです。自分の中にある欲求を否定しようとするあまり、他人に投影して「それ、承認欲求じゃない?」と指摘してしまうのです。

 

 

こんなやつとは離れてしまえ…と思う。

よく、「困った時の友こそ真の友」という。

それもそうかもしれない。

だけど私はいつも思う。

自分が嬉しい時、幸せな時に、そばにいてくれて、

一緒に喜んでくれる友こそ、真の友だと。

 

 

困っている時、

悲しんでいる時、

辛い時、

案外、一緒にいてくれる人はいるような気がする。

声をかけてくれて、優しくしてくれて、慰めてくれて、

それはそれで、本当に嬉しい。

ありがとうって思うし、その存在に、心から感謝したくなる。

 

それはそれでいい。

 

だけど、自分が成功した時、本当に「おめでとう」と笑顔で言ってくれる友達は、何人いるだろう。

または、自分が何かうまく行った時に、

「こんなことがあったよ」と言える友達が、何人いるだろう。

ずっとうまくいかなかった何かが、ようやく軌道にのり、'

前進できた時に支えてくれる友達が、何人いるだろう。

自分のことだけじゃない。例えば自分の子供が、

何かで活躍したり、学校や習い事でうまく行った時に、

心から「おめでとう」と言ってくれるママ友が、本当は何人いるだろう。

 

「誰かの幸せや成功を喜べる」というのは、ひょっとしたら

「誰かの悲しみに寄り添う」よりも難しいかもしれないと思うときがある。

大人になるにつれ、そして夢が形になっていくにつれ、

ふと感じる「嫉妬」のようなものに、それまでの良好な関係が崩れそうになったこともたくさんあった。

だからこそ、大切にしたいご縁や友情がある。

そして自分自身も、誰かの幸せを心から喜ぶことができる、

そんな人でありたいと、

心から願っている。

 

 

 

断捨離を初めて5年ほど経つ。

最初は、ゴミ屋敷とまではいかないまでも、モノに溢れた家に住んでいた。

あれもこれも、必要な気がした。

「これは○○さんからもらったものだから」

「これは、高かったから」

「これは、あの時の思い出がつまっているから」

 

そんな理由で、ほぼ全てを手元に置いておいた。

「大切なもの」だと思っていたものたちには、いつしか埃がかぶっていた。

自分にとって何が本当に大切なのかが、当時の私には分からなかったのかもしれない。

 

 

今、私は、結構好きなものだけに囲まれる生活をしている。

私が、選んだものたち。

どんなに高いものでも、エネルギーが合わなければ手放してきた。

どんなに人からもらったものでも、趣味が合わなければ「ごめんなさい」をしてきた。

逆にどんなに安いものでも、愛おしいと思うものは、手元に残した。

誰の作品かよく分からないような額に入った絵は全て処分し、

その代わりに、子供らの不器用だけど一生懸命に描いた絵が、フレームに移動した。

私にとっての宝物。他の誰からのものでもない。

 

私の「軸」が次第と見つかってきた。

手探りだけど、ここまできた。

 

そして今日私は、大切にしてきた陶器に、さよならを告げようとしている。

綺麗な陶器だった。思い出も詰まってる。だけど、今の私には、「何かが違う」。

そしてその陶器が目に入るたびに、その違和感を感じ続けることを、私はもう知っている。

 

「あの時は」大切だった。

「あの時は」愛おしかった。

でも、「今」は違う。

 

私は一つ、前進したのかもしたいのかもしれない。

または、私は一つ、もう前進しようとしているのかもしれない。

 

きっと、その美しい陶器にこびりついている執着こそが

今の私が一番手放したいものなのかもしれない。

私が選んで、私が手放す。私が、私にできる、大切なプロセス。

 

さぁ、前に進もう。

 

 

 

 

 

「おりゃぁぁぁぁぁぁーーーー」

と叫びながら筋トレでバーベルをあげて参りました。

「こんちくしょぉぉぉーーーーーー ボケーーー💢」もあったかもしれません。

英語で、Fワードも放っていたかもしれない。

 

いろんなストレス発散の方法があるけれど、今日は筋トレで炸裂して参りました。

こちらアメリカのジムも色々と種類があるのですが、私が最近ハマっているのが、Alpha Fit Clubという結構ハードなグループフィットネスクラブ。ノリのいい流行りの歌を大音量で流しながら、6〜12のステーションをグループで順番にガンガンに回って行きます。筋力トレーニングと有酸素運動が組み合わされており、全身を効果的に鍛えることができます。

 

そして、ストレスも怒りも発散できる。

私の中の、「怒り」の前に顔を出していた「悲しみ」も、一緒に大発散。

 

生きているといろんなことがある。

私は、悔しくて悲しい思いをした。裏切られて傷付いて落ち込んで悩んだ。

見返したいと思った。だけど、見返したい対象はきっと、自分自身だった。

私は、こんなことでへこたれないぞって。

 

 

バーベルをあげながら、トレッドミルで全力で走りながら、そしてプレスマシーンで鍛えながら、

いろんなことを思い出した。

 

友達に裏切られて、猛烈に悲しむことから始まり、だけどそれはいつしか、怒りに変わった。

いろんなことを思い出したんだと思う。彼女だって、こんなことになるなんて、予想していなかったんじゃないかな。

何をしても、何を言っても、私は離れていかない、怒らないと、思っていたんじゃないかな。

だから、バカにし続けても大丈夫と、たかを括っていたんじゃないかな。

 

「ばかにするんじゃねぇー!

「ふざけんな、ぼけぇぇぇぇぇぇ!!!」

気持ちの整理は、「断捨離」と似ている。

なんとなく、心の中に潜むもやっとしたもの。

それは、気づかないふりをしていても、見ないふりをしていても、確実にそこにあって

そして、これは手放すべきものだと、いつしか気付く。

そんな日がやってきた気がする。

 

手放していこう。Let it go. 

もう私は、大丈夫だから。

 

 

一昔前、コロッケさんというモノマネ芸人がいた。

最高に、面白かった。

彼のモンマネは時折とんでもないレベルのものだったけど、マネされて嫌だと思う人はいなかったそうだ。視聴者も、嫌な気持ちにはならなかった。彼のモノマネは芸術で、そして、見ている方はお腹の底から爆笑して、そして幸せになれた。

 

人のモノマネは、そこにリスペクトがあって、愛があるから、見ている人が楽しい。ただただ馬鹿にしているモノマネは、不快極まりない。それはその人を「バカにしている」から。

 

なんでも、そうじゃないかな。

愛とリスペクトがあるから、例えどんなにふざけたモノマネでも、見ている人は楽しいんだと思う。

 

馬鹿にしているモノマネは、視聴者にも伝わる。

だからドン引きしてしまう。

なんだか嫌な気持ちになる。

楽しくない。

 

超有名人になったコロッケさんだけど、きっと、本当は腰が低くて、謙虚な人だったんだと思う。人を小馬鹿にするような人じゃない。だから愛されて、そして、彼の芸は本当に楽しかった。

 

ここから学べること、なんだかたくさんあるように思う。

モノマネがどうのこうのじゃない。

 

どんなに綺麗な言葉で飾っても、逆にどんなにふざけた言葉をぶちまけていても、きっと、「そこじゃない」。

 

大切なことなんて目には見えない。

その人がどう感じるか。そこには、見えるもの、聞こえるものを超えた、もっと大事なことは伝わっている。

 

私は、どうだろう。

私は、人に何を伝えていけるだろう。