価値観を合わせる。
価値観を認め合う。
価値観を異にする。
価値観とは難しいものです。
ダイバーシティ(多様性)も近しいかもしれませんが、
言葉が一人歩きしているてらいもあります。
メディアや集団想念、
社会のうねりからくるものであるかもしれません。
価値観は一つとして同じものはありません。
それを通念化するものが、
ナショナリズムであったり、
教育であったり、
小さな単位で言うと家庭という単位かもしれません。
意外にも価値観の共有や他者への尊厳や畏怖というものは、自分よりも遠い世界や時代であるほど、
許容しやすいのかもしれません。
(織田信長に代表されるような戦国自体や、中国の三国志の時代のように)
人が人を殺し、殺し合う、
そんなことがありふれていることは、
殺戮が罷り通るようなことを簡単に受け入れられるような世代「世界」は恐らくなかったでしょう。
歴史として学び、過去の偉人の功績にスポットを当てられた教育で、
鈍感な価値観が形成されることもあるのかもしれません。
価値観や感性の最たるアンテナの立つものは、
間違いなくパートナーなど、
個人の最も近しい存在に対してであることが
多いはず。
それは、自分が当事者になるから。
簡単に語ることができない価値観。
それを他者(の魂)とどのように接していくか、
それも魂の魂であるが故の、
深淵なる学びの一つかもしれません。
ということを、今日の妻との意見の食い違いで感じたと言う、
深淵であり、平坦な日常生活なのであります。
言いたいことを言わずに、
堪えることも、
また
修行であり、
生命活動なのであります。
そして、
我が家の愛犬は、
愛も変わらず、
愛くるしいのであります。
夜の東京駅にて。