政治のスタンスを纏めます。
いわゆる自分はリベラルリバタリアンというスタンスをとっています。簡単に言うと、規制緩和等で市場経済においてガンガンに競争をする一方で、弱者にセーフティネットを設けましょうという思想です。誰にでも再チャレンジできて、なおかつグローバル化に対応できるという面で優れています。
いわゆるリフレには懐疑的です。実態経済が伴わないある種のケインズ政策だからです。
またtppに無条件に賛成です。国内の生産性の企業淘汰が必要だからです。
ここからは、かなり特殊な意見なのですが、最低賃金の上昇、同一労働同一賃金、解雇規制の撤廃、規制緩和、解雇規制を緩めること、労基法の厳罰化、ベーシックインカム的な社会給付、そしてその結果として一時的な失業率の上昇が必要かと思います。
とりあえず眠い!寝る!

渋家に入ると、私は妙によそよそしい感触をうけた。


主に二つの派閥に別れていたと思う。一つは、Mを中心とする、心情左翼グループ。もう一つはHを中心とする、アングラ芸術系グループ。


心情的な部分で、一致していると思われていたから開催された企画。


動画は玉石混合。プログラム前半が心情左翼グループ、後半はアングラ芸術系グループ。


心情左翼グループの動画からはじまる。


ポエトリーリーディング、動画に音声でのポエムの朗読からはじまる。退屈でエゴイスティックな動画。ただ、擁護をすると、インディーズの短編動画は、受け手に解釈を強要をするという分かりにくさが付きまとう。インディーズの故は、解釈が強要されるが故に様々な解釈が産まれ、議論を呼び込む。ということが、有意義な点であろう。


Mさんは「紙に書いた詩をただ眺めるだけだと、無力感が付きまとう。だからこそ、声に出して他人に聴かせることにより、世界と繋がることができる」なんてことを語っていく。


難病故に左手だけでピアノ演奏をするピアニストの動画、等々進んでいき。そしてMさん。今回の主催者の動画がはじまる。


内容としては。ランドセルを背負ったり、メイド服でコスプレをした格好で、反原発を皇居前で最初は大人数で拡声器を持って叫び。そして少数になっていって、中盤、一人Mさんが歩きながら詩の朗読をして、最後ランドセルを背負った男女ふたりが叫んだり、女の子が普通になりたいなんて言いながら自傷行為をして、最後、反原発を語って終わるという動画だ。


反原発というのを象徴に戯れているという印象を受けた。つまりは、真面目に、例えばの話、与党議員にロビイングして反原発をお願いするということでもなく。自分たちの感情、衝動を、イデオロギーを真面目な感じで語ることを避けることで、自分達の子供性、純粋性を保つというのをこれから読み取った。一言で言えば見沢知廉的。


それが、この動画を通して感じられたことであった。




根本的に人を信用していないし、弱肉強食のサバイバルに晒されている。とりあえず、前向きに人の縁だけは大事にしなきゃいけない。だけど、自分には人が貨幣に見えてくる。一方で自分を貨幣に表示した時にその価値があまりないことに苛立つ。 世の中、コミュニケーションという貨幣のトレードオフ。





人との関係性に貨幣価値を持ち出す時点でいろいろおかしい。文学的というよりも経済的、いや哲学的。僕はロマン主義の信奉者であったはずなのに、最近皆が貨幣に見えてくる。 僕は金も持ってないし、だから価値提供の手段が限られている。いっそのこと狂いたい。





だけど、理想は見たくない。誰も崇拝することできない。僕はミーハーになれないのだ。 仮に、何を信仰しているかと聞かれたならば、ある自殺したであろう女友達を挙げる。自分の生き写し、たぶん、こののちには現れないであろうほど、自分であったから。





自意識過剰ほど、くだらないものはない。それは分かっていても、ねっとりとそれが自分にまとわり付く。他者の思考がある程度把握できるようになるから、自分が考えすぎだと論理的には把握できるのだ。





自分はただの禁治産者。まだ、ゴミ屑駄文を書き連ねるだけの存在。いや、それすらも言い訳でサボっているじゃないか。 あくまでも、自分は商業作家。客を意識しなければいけない。この脳みそショートケーキの時代に受けてに解釈を委ねるような好きなことやって、生きるなんて甘っちょろい。





破滅的な考えしか頭の中で浮かんでこない。みんな死ねばいのに。理性が吹っ飛んだ文章がつぎつぎに浮かんでくる。基本自己破滅的な文章しか頭の中で浮かんでこない。










スワン(主役)になるために、幼い頃から完璧なバレリーナを目指して母子家庭の母親の期待を一身に背負い、大人になった女の子。ようやく、スワンの番だと言われ、特訓するが、そのスワンの役柄には生(聖少女)と死(娼婦)の二つの役柄を演じなければいけない。主人公の女は聖少女を演じることはできるが、娼婦を演じることができなかった。そこで、苦悩する。そこで、周りの人が娼婦の世界を紹介して、物語は展開してゆく。まず、一人マンコを弄ることから、またはクラブでドラック決めてセックスするとか。しかし、生まれつきの聖少女の面を持つ彼女にとって物凄いストレスになってしまっており、次第に現実と非現実の区分がつかなくなってくる。そして、次第にブラックスワンになっていった彼女は公演本番、その狂気のなかで演目を演じる。そして、幻覚の中、自分の腹を刺し、そのまま演じ、そしてその完璧な演技に、スワンに観客の拍手のなかで、彼女は燃え尽きて物語は終わる。










これ、色々と取れることができて、臨床心理学的には母親の期待に過度に答えすぎていた主人公の葛藤や。芸術論で言えば芸術を極めるためには狂気に触れていかなければいけないということ。単純に、女の嫉妬のなかで、エゴイスティックで自己防衛的な少女の孤独の姿や。あとは、舞台装置がやっぱり西洋の映画だと大きいなーって感じた。ドラックや自傷なんかも出てはくるが、単純にバレリーナの世界というものが広く人に観てもらうのには凄く適切で大きいなと感じた。



















『奇妙なサーカス』




最初から、ユイスマンスの『さかしま』を引用していたけど、字幕早すぎて読みきれなかったし。『さかしま』ってそもそもフェティシズムについてのことに書かれている小説なのに、たぶん適当に都合がいいところだけ抜き出した、いかにも美大生的な、私物事知ってます。つう態度がしょっぱなからイラってきた。




それはさておき内容だ。




母と父と娘がいました。娘は大きな楽器のケースのなかに入れられて、そこで母と父のセックスを見せつけられました。母は娘に似ているといい。娘に性的感情を抱いた父に娘は犯されます。母は次第に父を独占できない不満により娘に嫉妬をして、虐待します。しかし、ちょっとした母と娘のいざこざの弾みで母は死んでしまいます。そして、娘は病んで投身自殺をしますが、なんとか生き残りました。しかし車イスが必要な生活になりました。ここで時間が飛んで娘は大人になり、売れっ子の小説家になりました。そして小説の編集長からポチという名前の付き人を紹介され、その小説家の世話をすることになります。




しかし、ここで奇妙なことに、投身自殺で足を悪くしているはずの小説家は車椅子を普段はしているのですが、実は一人で歩くことができます。また、小説家はトラウマ故にか常に発狂しています。そんな中、ポチは編集長から小説家のことを雑誌の探るように依頼されます。ここから幻想の世界に入り込んできます。実は成長した小説家は娘ではなく、母親自身が小説家であったということをポチは突きつけます。娘は児童虐待で、他の施設に預けられていて、その虐待の罪滅ぼしに、母親は娘になりきって、足の不自由な娘を演じ続けていたということです。父親はポチが手足を切断しダルマ人間の状態にして、その娘への贖罪としてポチは父親を蹴り続けた。そして、ポチが実は娘であることを告白をして、最後の仕上げとして母親にダルマ人間にしようとするところで、幻想は終わる。ここで現実に戻り車椅子を求めるが、車椅子のことなどしらない、とポチは答えます。




幻想の中で複雑に、現実と非現実、過去と現在が絡み合っているこの映画は、見る人にとってみたら難解極まりないものになっている。だから、中盤から終盤にかけて男がセリフで現状の状況を長々と説明することになって、伏線といえば伏線ではあるが、とてもかったるかった。ざっとした粗筋書いたけど自分でもあんまり上手く説明出来てない感じがする。




まあいいや。




感想。近親相姦のトラウマとかいう糞くだらねーありきたりなものに幻想とか華美な服装で誤魔化している感じがして終始好きになれなかった。