感覚で生きていくことに手応えを感じていたら
論理的に説明できるか聞かれて答えられなくて
は、とした
自分だけが幸せで満足なら
きっとこの感覚の活用法で生きていける
いい気分とか
エネルギーの方向とか
感情の大きさとか
体感できたものや思考では理解できないもの
自分の中で、自分の感覚に対する信頼が高まっていく
そして再現性が上がっていく
だけど、他の人の力になりたいと思ったら
私はどのように説明ができるの?
感覚的に、では、説明がつかないし
自分の中での再現性だけでは一般化しない
感覚だけでは不十分だ
論理がやはり必要なんだ
一日経って、改めてそう感じた
今の私からは見えないけど
なんとなく感じられるのは
論理とはサイエンスで宇宙を理解することで
そもそも宇宙を成り立たせているものが
今現状、サイエンスで何が明らかにされていて、何が明らかにされていないかの緻密さの理解と
それが感覚や意識とどう繋がっているのかの理解が、今現状、不十分だと感じている。
たとえば、原子核の周りに電子があるという図は、本来、本当の姿ではないようだ
本当は電子が存在しているのではなく、原子核の周りに無秩序に光が観測できる瞬間がある
光が観測できる場所はとどまってはおらず、原子核の周りのどこかで観測できる
その光を、電子、と名づけている
それって、原子核の周りに電子があるのではなく、原子核の周りに、瞬間瞬間、無秩序に光るその光に、便宜上、電子という名前をつけたのだということ
そして、宇宙は波のようなゆらぎでできていて、高くゆらいだそのトップだけを、人は観測できる。だからつまり、粒子が存在するのではなくて、ゆらぎのトップを粒子化して観測しているのだということ
粒子と観測できるのは、ゆらぎのトップが安定しているから
ゆらぎのトップがその場所に何度も何度もあり続けている
それを粒子だな、と観測することができる
安定した粒子は観測しやすくて、それを原子核と名付けた
少なくともその現象を便宜上、原子核と名付けたのであって、厳密に言えば、原子核自体も存在はしないのだけど
頭が混乱するだろうか
宇宙には波のようなゆらぎだけがある。そのことを表現したり、理解のために便宜上絵にして教えてくれるのだけど。
どちらかというと、ゆらぎのトップを観測するのを、何か絵に表現するというよりは、自分の中であると認識するだけ、が、宇宙のイメージに近いんだと感じる
絵にしたら、絵の理解になるでしょ?
でも絵にするのは便宜上
イメージでしか到達できないけど
イメージを表現したら、もうそれは便宜上でしかない
サイエンスはそうなっている
宇宙はそうなっている
感覚で生きる私の、宇宙と繋がる感覚って
じゃあ、論理展開したらどうなるの?
今、分かることは、
見えるものから生み出される理解ではなく、
存在しないものをイメージして生み出される理解になる
それは、とても複雑になるけど
それはとてもシンプルになる