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佐太の渡し跡

佐太西町2丁目

木版画同好会「ばれんの会」

山中淑詠

 

淀川の堤に上がる左角に「淀川筋佐太渡船場」と刻まれた石標があり、ここから川向かいの鳥飼へ船で渡っていた。昭和の初めに府営となり、昭和48年9月淀川新橋の完成にともなって渡しは廃止された。他にも下島、七番の渡しがあった。

 

佐太は古くから京街道に沿って、枚方守口の間の宿として栄え、佐太へ来れば何でも揃うということで、近在の村より買物に来られたそうです。つい最近まで、風呂屋、茶碗屋、樽屋等の屋号で呼ぶことが通用していました。佐太といえば佐太天神・来迎寺・陣屋跡などの史跡と共に川向いの摂津へ渡る道筋として、佐太の渡場がありました。この渡場は歴史が古く慶長年間(1596~615年)大阪冬の陣の折、片桐且三が大坂城より高槻へ帰る時に、この佐太の渡しを渡ったと伝えられています。私も子供の頃、この渡し舟に乗って、お盆の精霊を淀川へ流した懐かしい思い出があります。この渡しも昭和初期頃は贈で漕いでいましたが、その後、発動機になり摂津市へ渡る唯一の交通機関として栄えていました。昭和48年淀川新橋の開通により閉鎖され、今はその昔渡しの世話をしておられた西村家の前庭に「淀川筋佐太渡船場」という石標だけが昔の面影を残しています。

生駒善ー

(佐太中町7丁目)

転載:守口市民憲章制定25周年記念木版画集『守口百景』
作成:守口市木版画同好会ばれんの会1998年
テキスト入力:元市民憲章副会長 はまがみ