雪や氷も元は水・・「泥球の話」(´・ω・`)? | 100のありがとうのブログ

100のありがとうのブログ

病気は神様からの贈りもの・・忘れていた感謝のこころ・・

 

 

 

 みなさん、おはようございました。(* ^-^)ノ♡ 12月8日(木曜日)になりました。

 

 

 

 

今朝は5時に目が覚めて、見ていた夢は大浴場で葉を磨いている自分の夢を見ていました。(て、いうか・・印象に強く残っていたのは、立って前かがみとなって、口の中を水で注ぎながら、歯ブラシでごしごし(バイオレンスな/笑)そんな恰好で普通はやらんだろう?

 

 

昨日、ブロ友さんが送ってくれた画像

 

 

自分を見て、自分らしくない自分にツッコミを入れたくなってくるような夢を覚えていて、大浴場がどこなのか!?覚えていたのは(頭に浮かんでくるのは)愛知県の知多半島のとある旅館での出来事で・・

 

 

 
昨日、ブロ友さんが送ってくれた動画
 

夢の中でも、その浴場の中に女の人がいたので、ソコが女湯なのか、男湯なのかも意識しておらず、ただ30代前後の女の人が一人いるな、と感じていただけに、思い出したのは、まだ40代だった頃に出張で訪れた名古屋から静岡へ車で向かう際の宿泊施設の旅館でそういう経験をしたことがあって、(男湯に女の人が一人で入っていた)

 

 

 

大きなガラス戸を開けて浴場に足を踏み入れた瞬間に「きゃー!!/ごめんなさい!!」と言われて、その声に驚いて、(後ろ向きに背中を見せた女の人が髪を洗っているところで鏡に男の僕が映ったんでしょうか/笑)

 

 

 

スグに後すざりして入り口ののれんを確認すると「男湯」になっている。(???)初めての体験だったので頭の中で混乱もしたのか、もう一度浴衣を着てフロントに行き事情を説明したら(すみませんウチの従業員が・・)

 

 

 

 

そうなんや・・(●´ω`●)?そういう事が普通に行われているんや・・(お風呂の交代で/掃除の時間が夜遅い時間に行われているトキがあるらしい男湯→女湯→男湯/のれんの掛け変え忘れやったようでwラッキー!!/苦笑)

 

 

 

 

ハラハラ!ドキドキ♡は、ハプニングでしたが、人生においても、平々凡々に生きているよりも、時々はこういった出来事も、刺激になって、よいのかもしれませんえん。( ˘•ω•˘ )?

 

 

 

 

 

本日の日めくりのカレンダーに書かれてあることわざは「雪や氷も元は水」でございます。

 

 

 

雪や氷も元は水

 

 

 

もともとは同じものでも、環境によって異なったものになるということ。(ことわざデータバンクより)

 

 

 

水滴はあくまでも水滴です。

アダムスキーの講演より、一部抜粋

同じ元素からできた水です。さて、一滴の水をここへ落とすことにしましょう。それは落ちるとすぐに形態物になります。その水滴は平たい表面に落ちたので、底の平たいドーム状の形となります。そこで水滴は言います。

「ぼくを見てくれ。ぼくは個別化した実体になった」と。しかし落ちた他の水滴は少し違います。どれも底は平たいのですが、形は大小さまざまです。したがって各水滴はそれ自体、個性化されています。私たちが経験によってわかっているのは、この水滴はもっと大きな水のボディーに属しているということで、世界中の水に属しているということです。それがボディーを離れることによって自身を個別化させ、一個の実体になったのです。この水滴はころがるにつれて正体を失います。それは泥のかたまりになるからです。どこをころがろうとも、何を吸収しようとも、一向に気にしません。そしてついに泥の球になります。状況は変わりました。今や一個のフォームになったわけです。

それ以前はフォームではなく、液体ガスでした。今はフォームですから液体ガスは消滅しました。しかしその元の支持者すなわち創造者は水だったのですが、今や泥球は言います。

「ちがうよ。そうじやない。ぼくを見てくれ。ばくは泥の球体なんだ。表面には水なんかありやしないよ」。こうして水よりも泥球として認めてくれと主張し続けます。しかし水こそそのフォームの真の基礎です。だが泥球はなおも主張し続けて、水分が眼に見えないために、こちらが伝えようとすることを認めません。自分に見える自分の姿は泥球だけです。

しかし泥球になった水滴はついに止まって言います。

「ぼくはここで止まることにしよう。もうころがるのはやめよう。他の泥球たちはもうころがるのをやめて、古き良き時代に返ろうとしているらしい。ぼくもそうしよう」 

泥球たちは停止し、時間はすぎて、水分は蒸発し、"チリから作られて、ふたたびチリに返ってゆく"のです。私たちはこれを"死"と呼びます。一方、チリとしての無機物はチリに返り、まもなく他の泥球になるでしょう。大小さまざまの個体にまた応用されるでしょう。最初の泥球の正体はなくなりました。永遠に!それは短期間、自己本位に生きただけです。意味がわかりますか。

 

しかしもう少し利口で知識欲のある泥球があるとします。あらゆる物を分析して、その奥までも探ろうとします。そこでこの泥球は更にころがり続け、探求を続けます。それは単なるフォームではありません。その内部に何かがひそんでいて、他の泥球とは違うのだと語りかけます。私たちが個体と呼ぶこの泥球を、何かが作り上げているのです。そこで泥球はますます探求を続け、ころがり続け、ひどい場所に打ち当たり、地獄のような時をすごし、どこかへ到達しようとします。そして、ときには疑問を起こします。自分はいつかそこへ行けるのだろうかと。いつかは行けるだろう。

 

ついに泥球は広大な水面の岸辺に来ました。ここは海なのかもしれない。泥球は途中であらゆる恐ろしい物事を体験しました。さまざまの泥れた物に接触しました。純粋な物は何もありません。あらゆる種類の汚濁した土くれがくっつきました。

しかし泥球がこの大海原の岸辺に着いたとき、燦然と打ち寄せる最初の波が、彼を水面の中に運び込みました。そのとき、このフォームを形づくっていた水滴は急に分離して、海洋の一部分になりました。そしてフォームを形成していた泥や砂も広大な海中に吸収されました。その瞬間、それは純粋になったのです。あらゆる泥や砂は消滅しました。泥球は今やそこで"万物"と一体化したのです。

かつて泥球のすべてを成していた水分や要素は、海洋の一部となりました。これは海洋との一体化であり、彼はその一部と化したのです。その海洋がいかに広大であろうとも、その中のどの部分といえども、全体は彼の体そのものです。泥球が海洋の体と同じになったからです。しかし、泥球はなおも彼自身が水滴であったときの自身の正体を忘れていません。

なぜなら泥球は自分に関することすべてを万物の一体性の中に持ち込んだからです。そして泥球は体験や記憶が永遠となっている場所へ自分を置いたのです

 

(アダムスキーの「泥球の話より)

 

 

 

1人は万人のために・・(´・ω・`)? 万人は1人のために・・社会とは、お互いが支え合って成り立つものである。

 

 

 

 

あなたは「ワタシ」であり、わたしは「あなた」です。(元ひとつの魂からの枝分かれ・・)

 

 

 

 

今日も明るく!楽しく!元気よく!笑顔で!いってらっしゃ~~い (* ^-^)ノ♡