こんにちわ、今回は前々回に続き私の人生について書いていこうと思います。

前々回は沖縄での生活を書いたのですが小さい頃で長く感じていましたが振り返ると何だか一年ちょっととすごく短かったのと記憶も思っているよりもあまりありませんでした。思い出せばたくさんあるのですが本当に言葉通りたわいない日々で書くほどでもないかな〜なんてことが多かったです笑

では今回は母、姉と再開して神奈川で暮らはじめてから卒園までのお話をしたいと思います。


母と姉と再開してからは神奈川県の川崎市を転々としていました。というのも近所付き合いが上手くできず揉め事がよくあったので市内ではありましたがなかなか定住することが難しかったのです。

姉の病状は私が離れる前と比べれば確かによくなっていたのですがそれでも知的障害のある姉は実年齢よりもはるかに幼く8歳になる年になってもまだ言葉をはっきり話すどころかオムツも外れておらず夜泣きも酷かったのです。ですが体の発達は年相応なので声が大きく近所からクレームが入ることが多かったりその時にはわからなかったのですが母子家庭で持病のある姉と未就学児の私を面倒を見ながらだと家賃などを払う事が難しい時期もあったのだと思います、夜逃げをしたことも何度かありました。

神奈川に移り住んでから数ヶ月した頃保育園に通うことになり私は昼間は保育園に行き始め姉は特別支援学校へ通うようになり母は保険屋さんの仕事をし始めました。

私はそこでもあまり他の子と仲良くできず保育士とばかり話して友達もできていませんでした。沖縄ではそれで問題はなかったのですが今回はある問題が出るようになりました。仲間外れにされるようになってしまったのです。ですがはなからまわりと遊ばない私にはあまり効果はないと悟ったのか今度は私のお弁当箱を隠したり外庭遊びで作った泥団子を壊すような子が現れたのです。流石にそれには堪えたのですが幼い子が隠す場所などたかが知れていて先生が見つけ出してくれていたり私自身いじめという概念を知らなかったので悲しい気持ちはありましたがそこまで重要視することはありませんでしたし忙しい母に心配をかけるのが嫌で楽しかったことだけを話すようにしていました。

ですがそれよりも嫌だったのは体についてでした。私は姉とは逆に体の発達が早く、6歳だったこの頃すでに身長が120センチ程ありました。心の発達も早かったのか人と一緒に着替えるのも嫌でした。何だか周りにジロジロと見られているきがするのです。ですが保育園は女子、男子という概念が甘く着替えるところからは男の子が見えていましたしそれどころか女の子と着替えるのも嫌だった私は新しい服を着てから古い服を脱いで体を隠すように着替えていました。それがまた滑稽に見えたのかいじめっ子はそれを嘲笑うようにヒソヒソと喋るのでそればっかりは母親に伝えて着替えの時間はトイレで着替えられるようにしてもらっていました。

体の発達についてはこの後も長年悩むことになりましたがこの時の保育園の子供だから、という考えにとらわれずに個人の成長に合わせて対応して下さった事にはとても感謝しています。

この頃姉は特別支援学校に通っていたのですが学区外で送迎がなく母は原付で姉を迎えに行って足の間にしゃがませて私を迎えにきて私は母に抱きつく形で後ろに乗って3人乗りをしていました。今思うととんでもないですね、笑。この頃は道交法もそこまで厳しくなかったとはいえかなり大胆な行動だったと思います。

ですが冬に曲がり角を曲がった家が綺麗なイルミネーションをしていて母の背中越しに見るその景色がとっても好きでした。それに帰りに今日はどうだったという話をしながら暖かい母の体に抱きついて笑うと伝わってくる振動を感じたり今日は右左を覚えたというと褒めてくれたり、私の唯一の母との二人の時間な気がしていました。

家に帰ると後は姉も含めた3人での会話でしたし発達が遅れた姉に合わせた会話は正直私にはつまらなかったのです。

そんな生活の中でもう二つ、私には好きな時間がありました。一つは母は私たちが寝た頃に部屋の隅で友人か誰かと電話をするのが習慣だったのですが私はトイレに起きるとそのまま母のところに行って電話をしている母の胡座に乗って抱きついたまま母がゆりかごのように揺れて背中を優しくさすってくれ話すごとに動く体の揺れを感じながらうたた寝するのがとても好きでした。もう一つは私は歌を歌うのが好きだったのですが母は寝る時にレイの歌が聴きたいな〜と言ってくれるので私が歌い母が上手ねと言ってくれそのままね落ちるまで歌い続ける、そんな時間が好きでした。

母は忙しく保険の仕事のほかに夜の仕事もしていてご飯は決まって野菜炒めかスティックパンだったので母の味というものが私にはありません。

ですが3ヶ月ごとに2〜3週間、母が昼間は家にいる事がありました。後に分かった事なのですがこの時母は生活保護を利用しながら働いたりある程度余裕ができたら2〜3週間は夜の仕事だけをして保険屋は休んでいたそうです。その時は保育園と学校を休んで子供用にカラーボックスを横向きに置いて子供らが作業できるようにしてそこでお菓子作りを教えてくれました。ほとんど母の手ではありますが出来上がるとみんなで食べて母はレイ達の作ったお菓子美味しいねと言ってくれました。

私は気がつくとお菓子作りが大好きになっていて小学生になる頃には将来はパティシエになるという夢を持つようになりました。

この頃父とはたまに会ったりしていてご飯を食べて公園に行ったり温泉に入ったりテーマパークに行って一日遊んだりしていました。

ですが別れ際になると姉も私も涙が止まらず父と離れる前に見るディズニーの夜のパレードが嫌いでした。

パレードとは逆方向に園を出る道を進み大阪行きの夜行バスを待つ、その時間が本当に嫌いで父に張り付いて母を一人にしてしまっていたことを今は後悔していますがその時はただひたすらに何でこんなに悲しい思いをしなければならないのか分からず父と引き剥がす運転手も父を連れ去っていくバスもその後強く握ってくれる母の手でさえ嫌いでした。

卒園式、父は来てくれて私の1年間で作ったものを見てたくさん褒めてくれて少ない友達と写真を撮ってみんな保育園はこうだったああだったと親に話しながら帰っている流れに自分たちもいて幼いながらにこれが普通の家族の時間でみんな当たり前に毎日していることなんだろうなと切なく思いました。ずっとこんなふうに暮らせたらいいのにと。

ですが小学校の入学式に父は来ませんでした。そしてそれから3年も父と会うことはできませんでした。


#3完