初めまして、レイと申します。私の初めてのブログでは私のこれまでの人生について綴っていこうと思います。

とは言ってもなかなか濃い人生な上に現在23歳、かなり長くなってしまうので何回かに分けて投稿していきたいと思います。

※注意喚起  暴力や障害者について触れていますので不快に思われる可能性があります。





それでは#1では私の生まれた頃から両親が離婚するまでの5年間について書いていきます。

20001年の4月、朝3時頃2800前後。私の母はアルコール中毒で妊娠中もお酒を控える事はできませんでしたが私は極、安産だったそうです。

私には3つ上の姉がいますが私が生まれたときにはすでに知的障害と発達の遅れが認められており生まれたときも2300g程度しかなく保育器に入っていた時期もあったそうな。そして姉の生まれる2年前、母は男の子を流産していました。性別もわかり名前も決めてお迎え準備も整っていたそうです。上2人の事もあり私は異常も見られずとても元気で発達も早かったそうです。今思えば姉のことがあったから早く感じていいたのかもしれませんが母はそれを嬉しく思い祖父母にもとても可愛がられて育ちました。

ですが知的障害を持った姉と一緒に育てるのはとても大変だったそうで姉の赤ちゃん帰りは壮絶で夜泣きや私への暴力も多々あったそうで少しでも目を離せば私は青あざができていたそうで今でも左耳の軟骨は折れたまま治っていません。

そして父はそんな姉を見て病院にいくから病気になるんだ。そう言って治療をやめさせようと保険の解約までしたそうです。育児もまともにはせずまだ5歳にもならない姉や私が手づかみでご飯を食べていることを大層不満に思っていたようで、手づかみでご飯を食べているのを見ると所かまわずほおを叩いて、時には子供椅子ごとひっくり返る事もあったそうです。

それでも母は離婚はせず友人や家族を頼りながら姉を病院へ通院させていいたそうです。父は働いているものの家庭へお金を入れるこはなく、母が働きながら私たちを養ってくれていたそうです。後で分かったことですがこの時父は自分のあることにお金を全て使っていたのです。

私が物心ついたのは4歳頃で、一軒家に住んでいました。その時、確かに母は家にいる事は少なく父と過ごすことが大半で帰ってきても母は寝るばかりであまりかまってくれない印象で父もなんだかそっけない感じの印象で私はテレビを見て過ごすことが多く気がつくと夜が明けていたことがありました。明るくなっていることに気づきベッドを振り返った時父が寝ている時にすごく寂しい気持ちになったことをとてもよく覚えています。今思うと幼いながらにテレビを見ている娘に対して「寝なさい」と声をかけずに先に寝てそのまま何時間も一人で起きていたんだなという違和感や可愛がってもらえていないのではという不安だったような気がします。

ある時私は姉に押され、家の階段から転げ落ちて廃線で頭を切り血が大量に出てしまいました。その時母はおらず号泣しても父はなかなか来ずそうしているうちに自分で父のところに行かなければ私は放っておかれる。と気がつき頭を抑え父の元へ行きました。しかし目の前まで行っても父は何をやっているんだと私に怒り救急車どころか応急処置をする事もせずただハンカチを持ってきてこれで抑えなさいと言ってどこかへ行ってしまいました。

洋服も血だらけで頭も血だらけだったのでどこがキレているかもわからずただ痛むところを手探りで抑えるしかありませんでした。

その後の記憶はあまりなく、気がつくと私は車の助手席でネットをかぶり病院の駐車場にいました。父は外で電話をして誰かと言い争っているようでした。きっと母だったのでしょう。電話を終えると父は運転席に座り何事もなかったように車を走らせて家につきました。帰ると姉は一人で留守番をしていたようで泣いて父に抱きついていました。今思うと違和感だらけで持病のある小さい姉を一人で留守番をさせていたこと、明らかな号泣に気づかなかったのかということ、車で帰ってきたという事は救急車で病院に行ったわけではないが私は確かに気を失っていたということ。思い出すとキリがないほどです。

それから少し経った日の夜。父と母が大きな喧嘩をしていました。私はどうにか宥めようと両親の膝を行き来していましたがとうとう父はコーヒーの入ったカップを壁に投げつけてどこかへ行ってしまいました。その時の息の詰まる感覚と壁に飛び散ったコーヒー、それを泣きながら拭く母の姿は今でも苦しいほど鮮明に覚えています。そのすぐ後でしょうか、父と母は離婚をして姉と母は治療のために静岡へ引っ越し私は母方祖父母のいる沖縄へ預けられました。

  


#1 完