葛籠集落からの脱出を決意した僕は、レンタカーの鍵を握りしめ、宿を飛び出した。エンジンをかけると、埃っぽい山道にタイヤが軋む音が響く。バックミラーに映る集落は、まだ静かに闇の中に沈んでいるように見えた。だが、その静けさがかえって僕を追い詰める。まるで集落全体が、僕の行動を見透かしているかのように感じられた。
山道を下るにつれて、僕は何度もハンドルを握る手に汗をかいた。この道は、まさに集落と外界を隔てる唯一の鎖だ。しかし、その鎖が、まるで僕をこの地に引き戻そうとするかのように、どこまでも蛇行し、先の見えない闇へと続いていた。
どれほど走っただろうか。カーブを曲がりきったところで、突然、車のヘッドライトが何かを照らした。道路の真ん中に、人影が立っている。咄嗟にブレーキを踏み、車が大きく揺れる。心臓が跳ね上がった。
そこに立っていたのは、見慣れた集落の住民たちだった。彼らは無表情な顔で、まるで僕の車の前に現れることを予期していたかのように、静かにこちらを見つめている。手に提灯や古い農具を持ち、全員が同じ方向、つまり僕の車が来た方向を指差している。その先には、昨日、少女が連れて行かれたであろう、山の奥深くへと続く獣道が薄っすらと見えていた。
「どこへ行くんだね、高梨さん」
先頭に立っていたのは、あの長老だった。彼の声は普段の弱々しさとは異なり、どこか冷たく響いた。僕は窓を開け、努めて平静を装った。
「ええ、少し気分転換にドライブでも、と……」
僕の言葉を遮るように、長老は静かに首を振った。
「そうはいかない。お前さん、この集落の**『掟』**を知ってしまった。知ってしまったからには、もうこの集落の一部だ」
彼の言葉に、背筋に冷たいものが走った。長老の後ろに控える住民たちの目が、まるで獲物を捉えた獣のようにギラつき始める。僕は咄嗟に車をバックさせようとしたが、後方からも別の住民たちが現れ、道が塞がれていることに気づいた。僕は完全に包囲されていた。
観念したように、僕は車のエンジンを切った。逃げ場はない。長老はゆっくりと僕の車のドアを開け、手招きをした。
「さあ、山の神様のところへ行こう。お前さんも、そろそろ**『始まり』**の時だ」
彼らのいう『始まり』が何を意味するのか、僕にはすぐに理解できた。あの和綴じの書物に記されていた、贄の絵。人の形をした贄が、神に捧げられる前に施されるという、奇妙な儀式。僕は、自分がその次の「贄」として選ばれてしまったのだと悟った。
彼らに導かれるまま、僕は車から降り、山奥の獣道へと足を踏み入れた。足元はぬかるみ、木の枝が顔を掠める。集落の人々は、僕を真ん中に挟むようにして歩を進める。彼らの足取りは迷いがなく、まるで何度も通い慣れた道であるかのように軽やかだった。
どれくらい歩いたのか。視界が開けた先に、巨大な岩が鎮座している広場が現れた。岩の表面には、先史時代を思わせるような、無数の奇妙な紋様が刻まれている。そして、その岩の前に、僕は絶句した。
そこには、昨日連れて行かれたはずの少女が、うつ伏せに横たわっていた。彼女の白い着物は泥と血で汚れ、か細い手足は不自然な方向に曲がっている。そして、彼女の傍らには、まるで生きているかのように、脈打つ**『何か』**が置かれていた。それは、形容しがたい、不定形な肉塊のようでもあり、しかし確実に、生命の息吹を感じさせるものだった。それが、この地の「山の神様」だというのか。
長老は、僕の背中を押して、その『何か』に近づかせた。
「さあ、高梨さん。よく見るがいい。これが、我々の『始まり』であり、『終わり』でもある」
その瞬間、僕の耳に、まるで大地が震えるような、低く唸るような音が響いた。同時に、少女の体がピクリと動き、か細い声で何かを呟いた。その声は、僕の名前を呼んでいるようにも、助けを求めているようにも聞こえた。そして、少女の体の近くに置かれた『何か』が、まるで呼吸をするかのように、大きく膨らみ、収縮を繰り返した。そこから発せられる悪臭は、生臭さと腐敗が混じり合った、吐き気を催すものだった。
長老は、僕の背中をさらに強く押し、少女の傍らに座らせた。
「今日から、お前さんも**『山の神様』の眷属となるのだ。そして、時が来れば、お前さんも、この集落の『贄』**となる」
僕は、目の前で繰り広げられている現実を理解することができなかった。僕の目の前には、民俗学の論文テーマなどでは決して片付けられない、根源的な恐怖が広がっていた。そして、この地の深淵に足を踏み入れてしまった僕は、もう二度と、元の世界には戻れないのだということを、絶望と共に悟った。
僕の意識は、薄れていく闇の中で、あの長老の言葉だけを反芻していた。
「『始まり』であり、『終わり』でもある」
僕にとっての『始まり』は、この場所で、一体何を意味するのだろうか。