僕の名前は高梨悠真。都内の大学で民俗学を専攻する学生だ。卒論のテーマを探しに、今年の夏は日本の僻地を巡っている。特に興味を惹かれたのは、地図にもほとんど載らないような山奥の集落に残る土着信仰だ。かつて祖母が「決して近づいてはならない場所」と口を酸っぱくして言っていた、そんな場所こそが僕の探求心を刺激した。
今回僕が訪れたのは、山形と新潟の県境に位置する「葛籠(つづら)集落」という場所だった。公共交通機関は一切なく、最寄りの駅から廃墟のような路線バスに乗り、さらにそこからレンタカーで未舗装の山道を2時間近く走ってたどり着いた。集落は深い山々に囲まれ、昼間でも薄暗く、常に湿った空気が漂っている。古い木造家屋が肩を寄せ合うように並び、人影はまばら。すれ違う住民は皆、どこか僕を避けるような視線を送ってくる。
集落の長老とされる老人に話を聞くことができたのは、到着して三日目のことだった。彼は「お前さん、東京からわざわざこんな山奥まで、一体何の用だ」と、終始警戒心丸出しだったが、僕が丁寧に民俗学の研究であることを説明すると、少しだけ口を開いた。
「この集落にはな、昔から**『山の神様』**がいらっしゃるんだ」
長老はそう言って、僕が集落で感じていた違和感の正体を少しずつ語り始めた。葛籠集落では、定期的に「山の神様」へ捧げ物をするという風習が残っているらしい。それは収穫物だったり、稀には動物の命だったりするそうだが、その話をする彼の目はどこか遠くを見ていた。
僕は長老との会話から、この集落の異様な雰囲気が、まさにその「山の神様」と呼ばれる存在と、それにまつわる風習から来ているのだと直感した。僕の卒論は、この地の「山の神様」とその信仰に決まりだと、興奮で胸が高鳴った。しかし、この時の僕は、その信仰の深淵に潜む真の恐怖を、まだ何も理解していなかったのだ。
翌日、僕は集落の歴史を調べようと、唯一の公共施設である公民館の資料室を訪れた。埃っぽい資料室で古い文献を漁っていると、一冊の和綴じの書物を見つけた。表紙には「贄(にえ)」とだけ書かれている。書物の中には、奇妙な絵と判読しにくい文字で、この集落の歴史と「山の神様」への供物の詳細が記されていた。絵は異形な姿の神と、その前にひれ伏す人々の姿。そして供物として捧げられるのは、どう見ても動物ではない、人の形をした何かだった。背筋が凍りつくのを感じた。
その晩、集落全体が異様なざわめきに包まれた。外からは、まるで祝祭のような、しかしどこか悲鳴にも似た奇妙な歌声が聞こえてくる。僕は恐る恐る窓から外を覗いた。すると、集落の人々が皆、提灯を手に一列になって山奥へ向かっているではないか。彼らの顔はどれも無表情で、まるで魂を抜かれたかのように見えた。
翌朝、集落は普段通りの静けさを取り戻していた。しかし、僕は気づいてしまった。昨日まで宿の向かいの家でいつも僕に愛想良く挨拶してくれていた少女の姿が、どこにもないのだ。宿の女将に尋ねても、「ああ、あの子かい? 山の向こうの親戚の家に行ったよ」と、あまりにもあっさりとした返事。しかし、その女将の目には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。
僕は急いで長老の元へ向かった。彼の顔色は真っ青で、僕の顔を見るなり、震える声で言った。「見てしまったのか……あの書物を……」
長老は、観念したようにすべてを語り始めた。この集落で「山の神様」に捧げられる「贄」は、古くから子供だったのだと。作物が不作に見舞われた年、疫病が流行した年、そして特定の周期ごとに、集落の子供が一人、贄として捧げられてきた。そうしなければ、「山の神様」は集落に災いをもたらすという、恐ろしい言い伝えがあった。
「昨日の晩、あの子が……あの子が選ばれてしまったんじゃ……」
長老は涙ながらに告白した。僕は全身の血の気が引くのを感じた。僕が資料室で見た、人の形をした贄の絵は、決して比喩などではなかったのだ。
僕はすぐに警察に通報しようとした。しかし、長老は僕の腕を掴み、必死に止めた。 「駄目だ! そんなことをしたら、お前さんも……お前さんも山の神様に目をつけられてしまう!」 彼の目は恐怖に歪んでいた。
この集落は、外部との交流を極端に嫌う。そして、何よりも「山の神様」への信仰が、彼らの生活の根幹をなしている。警察に通報したところで、彼らがまともに取り合ってくれるだろうか。もしかしたら、僕自身もこの地の「掟」に囚われてしまうかもしれない。
その日以来、僕は葛籠集落で過ごす一分一秒が、まるで地獄のように感じられた。集落の住民たちの何気ない視線が、僕を監視しているように思えた。夜中に聞こえる風の音も、どこか人ならざるものの声に聞こえる。
僕は、あの和綴じの書物に書かれていた、贄に関するもう一つの記述を思い出していた。それは、「贄は、自らの意思で神に捧げられることを望む」という一文だった。本当にそうなのだろうか? それとも、恐怖によって、そう信じ込まされているだけなのだろうか?
僕はこの場所から逃げ出すことを決意した。しかし、山奥の未舗装の道は、まるで僕をこの地に縛り付けるかのように、どこまでも続いていた。