岩谷時子 愛、そして歌… (追悼・岩谷時子) | 昭和の芸能を語るブログ

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有馬三恵子、山口洋子、阿木燿子
シンガーソングライター隆盛の時代となり
中島みゆき、竹内まりや、西野カナ…
今や女性が歌の作詞をするなんてことは
当たり前な時代となったが、その昔は
女性が社会に出て活躍するという時代

ではなく、作詞家という職業に女性など

いなかった。
そんな時代に、次々とヒットを送り出し
女性作詞家のパイオニアといっても

過言ではないヒットメーカーが、先日

この世を去った。
「作詞家・岩谷時子」


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従来の歌謡曲に取って代わり、

アメリカンポップス全盛の時代を迎えた

昭和30年代後半。
岩谷時子はめざましい活躍を見せる。
昭和35年に発売した森山加代子の

「月影のナポリ」を皮きりにヒットを

飛ばし、漣健児・音羽たかし

みナみカズみ(後の安井かずみ)らと

並んで、日本におけるポップスの

夜明けを切り開いた。
特に岩谷の詞は、それまでの歌謡曲の

ような硬い詞ではなく、親しみかつ

ユーモラスな詞で、当時の若者の心を

掴んでいった。


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それからほどなくして、彼女は訳詩でなく

正式に歌謡曲を書くようになり、

昭和37年にザ・ピーナッツが歌った
「ふりむかないで」が初の大ヒット。
今ね 靴下なおしてるのよ

 あなたの好きなタータンチェック…』
訳詩で遺憾なく発揮したポエムのような

詞の表現を歌謡曲の世界に持ち込み、

新風を巻き込んだ。


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岩谷時子の綴る詞の幅広さは、数多くいる

作詞家の中で群を抜いている。

逢いたくて 逢いたくて

 星空に呼んでみるの だけど
 淋しくて 死にたくなっちゃうわ…

(「逢いたくて逢いたくて」園まり)
好きとあなたから

 言ってほしい 女心…
(「ほんきかしら」島倉千代子)など、
純情可憐な女性を甘くせつなく描いている。


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かと思えば、大人な魅力あふれる女性を

官能的に描くことも岩谷は長けていた。
こっちを向いて 愛の言葉を

 髪をほどいた 首すじに…
(「ベットで煙草を吸わないで」沢たまき)
あの晩 あの子の 顔も忘れて

 あの晩 あなたに 抱かれた私…
(「いいじゃないの幸せならば」佐良直美)


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さらに、女性が憧れる理想の男性像を、

男性目線として詞に多く綴った。
クサいセリフ入りの「君といつまでも」

といった一連の加山雄三のヒット曲の

ほとんどを手掛け、フランク永井の

「おまえに」では、長年連れ添ってきた

妻への感謝を夫が述べた愛ある暖かい

詞へと仕上げた。
僕のほころび縫えるのは

 同じ心の傷を持つ

 おまえの他に誰もない…

 (「おまえに」フランク永井)


こうした様々な人間像を描いてきた

岩谷であったが、歌の世界に抒情的な

風景を描くことも忘れなかった。
それまでの従来の歌謡曲と同じ方式では

あるが、岩谷の場合はテイストをやや変え

ただ風景を描くのではなく、それをいかに

ロマンチックでおしゃれに描くかに力を

入れていた。

モダンで洒落た詞により、描かれている

人間の心理が浮き立つ。

これが岩谷ならではの詞の特徴であった。
街はいつでも 後姿の 幸せばかり…
(「ウナ・セラ・ディ東京」ザ・ピーナッツ)


他にも、布施明の「これが青春」や

梓みちよの「お嫁さん」といった

テレビドラマ主題歌、

「ふしぎなメルモちゃん」や「宝島」

といったアニメソングも手掛けた。
さらに、郷ひろみに「男の子女の子」から

「花とみつばち」にかけての一連の

ヒット曲を手掛け、初期を支えた。
こうして見れば、本当に幅の広い作詞家で

あったことがわかる。

しかし何と言っても、岩谷時子を語る上で

欠かせないのが「越路吹雪」である。


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宝塚が大好きな少女だった岩谷が、

宝塚の出版部に入社し、そこで越路吹雪と

出会う。
歌手を夢見た越路と共に宝塚を去った

岩谷は、越路のマネージャーとして、

30年間支えることとなる。
昭和27年、二葉あき子の代役として舞台に

抜擢された越路のために、作曲家の

黛敏郎に頼んでピアノで弾いてもらい、

訳したのが、今も歌われている

「愛の讃歌」である。

あなたの燃える手で

あたしを抱きしめて

ただ二人だけで

生きていたいの…
これが作詞家としてのスタートとなった。


その後も、「日本語でなければ

歌いたくない」という越路のために、
マネージャー業の傍ら、シャンソンの

楽曲を次々と訳し、「ろくでなし」や

「サン・トワ・マミー」、

「ラストダンスは私に」といった

代表曲を世に送り出した。
歌のみならず、演出家の浅利慶太と組んで

舞台を企画し、女優としても名声を得て、

日本屈指のエンターテナーとして
のし上げたのも、みんな岩谷の手腕で

あった。
越路に提供した歌たちは、ほかの作品とは

異なり、情熱的でドラマチックなものが

多い。

サントワマミー 風のように

 大空を さまよう恋…

(「サン・トワ・マミー」越路吹雪)

どうぞ 踊ってらっしゃい

 私ここで待ってるわ

 だけど お願いね

 ハートだけは とられないで…
(「ラストダンスは私に」越路吹雪)

そこに越路吹雪の圧倒的な歌唱力と

雰囲気が加わってマッチした。
名作詞家でもあり、名プロデューサーでも

あったのだ。


越路吹雪に尽くしてきた岩谷であったが、

昭和55年に越路が56歳の若さでこの世を

去ると、大きなショックを受け、以後
歌謡界の作詞家として活動することは

なかった。
大きなショックから立ち直った岩谷が次に

活動の場所を求めたのがミュージカル。
ここでも多くの作品に詞をつけ、業績を

残した。
岩谷時子の97年という生涯は、とにかく

人のために尽くした聖母のような美しき

人生であったように思える。
そして歌謡界においての功績は計り

知れない。
今頃はあの世で待っていた越路吹雪との

33年ぶりの再会を楽しんでいることで

あろう。

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(岩谷時子 主な作品)
・愛の讃歌/越路吹雪 (昭和29年)
・月影のナポリ/森山加代子 (昭和35年)
・ビキニスタイルのお嬢さん/

 ダニー飯田とパラダイスキング

  (昭和35年)
・ラストダンスは私に/越路吹雪

 (昭和36年)
・ふりむかないで/ザ・ピーナッツ

 (昭和37年)
・恋のバカンス/ザ・ピーナッツ

 (昭和38年)
・ウナ・セラ・ディ東京/ザ・ピーナッツ

 (昭和39年)
・夜明けのうた/岸洋子 (昭和39年)
・サン・トワ・マミー/越路吹雪

 (昭和39年)
・ろくでなし/越路吹雪 (昭和40年)
・君といつまでも/加山雄三 (昭和40年)
・逢いたくて逢いたくて/園まり

 (昭和40年)
・お嫁においで/加山雄三 (昭和41年)
・わが愛を星に祈りて/梶光夫&高田美和

 (昭和41年)
・ほんきかしら/島倉千代子 (昭和41年)
・これが青春だ/布施明 (昭和41年)
・ベットで煙草を吸わないで/沢たまき

 (昭和42年)
・お嫁さん/梓みちよ (昭和42年)
・太陽のあいつ/ジャニーズ (昭和42年)
・太陽野郎/寺内タケシとバニーズ

 (昭和42年)
・恋の季節/ピンキーとキラーズ

 (昭和43年)
・あの人に逢ったら/西田佐知子

 (昭和43年)
・いいじゃないの幸せならば/佐良直美

 (昭和44年)
・サインはV/

 麻里圭子&横田年昭とリオ・アルマ

 (昭和44年)
・君をのせて/沢田研二 (昭和46年)
・ふしぎなメルモ/

 出原千花子、ヤングフレッシュ

  (昭和46年)
・男の子女の子/郷ひろみ (昭和47年)
・海 その愛/加山雄三 (昭和51年)
・おまえに/フランク永井 (昭和52年)