1945年8月15日

玉音放送によって、日本がポツダム宣言を受諾したことが国民に伝えられる

→ 日本では一般に「終戦の日」

この終戦の日

8月15日の

8日前。

8月7日は


「広島に原爆が投下された翌日、豊川海軍工廠が壊滅的な空襲を受けた日」です。


1945年8月7日
午前10時13分から10時39分までのわずか26分間に、豊川海軍工廠へ3,256発の500ポンド爆弾が投下され、2,500人以上が亡くなりました。

こちらが終戦前の時系列です。

8月6日 広島への原爆投下
8月7日 豊川海軍工廠空襲
8月8日 ソ連が対日宣戦布告
8月9日 長崎への原爆投下
8月15日 終戦

つまり8月7日は、

「広島の翌日であり、長崎の2日前であり、終戦の8日前」

という、日本が敗戦へ向かう最後の局面の真っただ中でした。


現在も豊川市では8月7日に豊川海軍工廠の犠牲者を悼む平和祈念式典が行われています。

その前日
8月6日に豊川の海軍工廠の平和公園に行ってきました。




豊川海軍工廠とは?


豊川海軍工廠(とよかわかいぐんこうしょう)は、日本海軍の兵器を大量生産するためにつくられた巨大軍需工場です。


1938年に旧・豊川町、牛久保町、八幡村にまたがる地域への建設が決まり、1939年12月15日に開庁しました。


「海軍工廠」というと呉や横須賀のように軍艦を造る造船所を想像しますが、豊川は少し違います。


豊川の主力は、


機銃・機銃弾・測距儀・双眼鏡・射撃装置


など。


特に機銃の生産は日本最大規模で、「東洋一の兵器工場」ともいわれました。




戦争が拡大するほど、工廠も巨大になった


最初は「機銃部」と「火工部」が中心でした。


しかし戦争の拡大とともに、


1941年 光学部

1943年 指揮兵器部

1944年 器材部


と次々に部門が増設されます。


最終的には5万人以上が働く巨大工場になりました。


現在の豊川市の人口規模を考えても、5万人が一つの軍需工場で働いていたというのは相当な規模です。


しかも働いていたのは軍人だけではありません。


一般の工員、徴用された人々、女子挺身隊、そして学徒動員された学生や生徒もいました。


つまり豊川海軍工廠は、


「軍人が働く軍事施設」というより、街全体を巻き込んだ巨大な軍需産業の拠点


だったと考えると分かりやすいです。



実は「豊川市」そのものにも大きな影響を与えた



現在の豊川市が誕生したのは1943年。


豊川海軍工廠ができたことによる人口増加や、周辺町村の結びつきが強まったことが、市制施行の大きな背景になりました。


つまり、


豊川に海軍工廠ができた

全国から大量の人が集まる

人口が急増する

周辺地域の結びつきが強まる

1943年「豊川市」が誕生


という関係があります。


豊川海軍工廠は、単に「豊川にあった戦争施設」ではなく、現在の豊川市の形成そのものに影響した施設なのです。



そして1945年8月7日


戦争末期。


米軍にとって豊川海軍工廠は、日本海軍の機銃や弾薬などを大量生産する重要な軍事目標でした。


そして、


1945年8月7日。


豊川海軍工廠は米軍による大規模な空襲を受けます。


豊川市の資料では、


B-29 124機などが来襲。


そして工廠は壊滅的な被害を受け、


2,500人以上が死亡。


これによって、豊川海軍工廠は兵器工場として事実上その歴史を終えることになります。




なぜ2,500人以上もの犠牲者が出たのか


ここも豊川海軍工廠空襲を理解する重要なポイントです。


巨大な軍需工場であり、5万人以上もの人が働いていた場所に大規模な集中爆撃が行われました。


しかも、その中には若い学生や生徒たちもいました。


だから「軍事施設が爆撃された」という一言では、この出来事の実態は伝わりません。


軍事目標だった巨大工場の中で、非常に多くの一般工員や動員された若者たちが働いていた。


その場所が大規模な爆撃を受けたため、極めて大きな人的被害につながりました。




今でも当時の建物が残っている




現在の豊川海軍工廠平和公園には、当時の遺構が保存されています。


代表的なのが、


旧第一火薬庫


火薬を保管していた施設です。









建物全体に土がかぶせられているため、外から見ると小さな山のようになっています。




そして、


旧第三信管置場。


「信管」は弾丸を爆発させる起爆装置です。


万一爆発しても周囲への被害を小さくするため、建物の周囲を高さ約5メートルの土塁で囲っています。






ほかにも、


防空壕跡

当時の街路灯

工廠関連施設


などが残っています。





豊川海軍工廠を一言で表すなら



「豊川という街を大きく発展させ、同時に戦争によって大きな悲劇の舞台にもなった巨大兵器工場」


と捉えます。


1939年に開庁。


戦争とともに巨大化。


5万人以上が働く。


豊川市誕生にも影響。


そして1945年8月7日、壊滅。


2,500人以上が死亡。


その8日後、終戦。



少し長くなってしまいましたので、

記事を2つに分けたいと思います。



上に書いた

2500人以上が死亡


とありますが、当然一人一人に家族があり、人生があり、思いがありました。


そのお話を次回にさせて頂きたいと思います。