三木さんより、転載

Takashi Miki <anandtao@gmail.com> wrote:
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> 「Dark Night of the Soul  魂の闇夜」
> Kiara Windrider
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> 悟りはいくつもの段階があります。
> バガヴァンは悟りについて、「私たちを直接的な神体験から隔離しているマインドという壁に穴をあけることだ」、といいます。まず、最初の穴を開けることが悟りへの旅の第一歩です。そしてその穴が広がれば広がるほど体験するワンネスの状態は深いものになります。この壁が完全に消えたとき、自分、自然、創造、神の間の分離はなくなります。
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> 人によっては、ラマナ・マハリシのように一瞬にしてその壁が全壊してしまいます。
> しかし、大半の人にとっては漸進的なプロセスです。壁が一度に崩れると現実世界で機能することが大変難しくなってしまうので、ほとんどの人がもう少し緩やかなプロセスを必要としています。小さな穴が現れ、エネルギーや認識、発想の変化に肉体が適応していくと同時に穴は広がっていきます。「ディクシャ」はこの穴を開けるための一つの手法だといえます。
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> 多くの場合、壁の穴が徐々に広がっていくこのプロセスに並行して起こるものが「魂の闇夜、Dark Night of the Soul」とも呼ばれるものです。
> 「私」が残りの宇宙全てから切り離された固定的で、かつ孤立したものであるという感覚は人間の脳特有のものですが、ディクシャを受けるとこれに変化が生じ始めます。魂の闇夜、Dark Night of the Soulとは単に、この分離された「私」という感覚の解消を指す比ゆ的な表現です。
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> ほとんどの人が自分自身で認識している以上に自身のアイデンティティー(独自性・自分はこういう人だ、という概念)に執着しています。自分の過去、心理的な性格、社会的な役割、人生の目的などは全て固定した「自己」の概念から発生します。
> 実際、宇宙の意図の探求さえも、自己があるという感覚がベースとなっています。この感覚が消えていくと何が残るのでしょう?固定的で分離した「自己」として自分を認識できなくなったとき「私」は一体何者になってしまうのでしょう?
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> 個人としての「私」という概念が人間の脳の映し出す錯覚に過ぎない、と認識した時「自己」という体験への執着が強ければ強いほどこの衝撃的な発見から受ける打撃は大きなものになります。そのとき「エゴ」(個人としての「自己」と同じこと)は迫りくる死に対してあらゆる抵抗を示します。使い古した心理的な自衛本能(自己防衛)のパターンが浮上し、それに伴ってありとあらゆる精神的なゴミが出てきます。心は存在の暗闇に包まれ、頼りにしている生命維持のサポート、精神的な支え含む全てが崩れ始めます。神への信仰そのものも、ほとんどの場合直接の神体験の代用として「エゴ」が作り上げたものであるため、崩れ去ります。
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> しかしながら、魂の闇夜は苦痛を伴う困難なものである必要はありません。
> 固定的で分離した「私」に極端な執着があるときにそうなるのです。全ての恐怖は詰まるところ崩壊、そして死の恐怖ということができます。
> 一旦悟りのプロセスが始まると、そこに死する「私」という概念そのものが錯覚であることに気づき、その旅は速やかで爽快なものになります。そして全ての恐怖と期待を手放し、大空を舞う風にのって神秘の世界へと運ばれていきます。
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> 秘教の世界ではこれを「魂のイニシエーション(導入式)」と呼びます。神性が開花する前に全ての新参者が必ず体験するプロセスだと言われています。死と再生のプロセスに象徴されるものだということもできます。
> そこでは「エゴ」が死にます。そして代わりに誕生するものは、全てがワンネスの流れの一部であるという知識が生み出す内なる神性です。「荒れ野の40日間」とはキリストが宣教活動の開始に先立って、まさにこのプロセスを体験していた期間のことです。この期間を経て彼は恒久的な神合一の状態に至りました。
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> 闇夜の中の旅を直線的な時間軸で計ることはできません。ほんの一瞬で終わるか何年にも及ぶかは、私たちがどれだけ「エゴ」の死を受け入れることができるかにかかっています。逆説的に言えば、そもそも分離した「私」など存在しないということを私たちが理解した後に初めてこの「死」は訪れます。
> これは単なる発想の転換です。そしてそれによって私たちの本質が表現されるための道が開かれるのです。自分自身とは単なる意識の流れであり、人生と呼ばれる劇場においてその意識が常に表現され続けているのだ、ということを認識します。
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> 脳内の神経生理学的な転換が伴った状態でこの気づきを得ると、私たちは内なる世界を制覇したといえます。分離やジャッジといった発想が入り込む余地がなくなります。シンクロニシティー(共時性)が日常の体験になります。現実の認識が直線的なものに限定されず、身の回りにあらゆる奇跡が起こり始めます。調和と共鳴の場が生まれ、広がっていきます。心理的なドラマを演じることも、存在の苦しみも必要ではなくなります。行く先々で美と喜びを放ち始めます。それ以外に何も体験することができなくなるのです。
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> 私たちのほとんどにとってこの体験は未知のものです。
> しかし、待ち受けている結果を知ることによって旅路が楽になるはずです。すばらしい夜明けが待っていることを知れば夜も少し短く感じると思います。眠りから覚めて夢が現実ではなかったと気づくように、私たちが最終的に目覚めるとき、その長い、長い闇夜さえもが錯覚であったことを発見します!
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> 翻訳:上川勇一郎