もう10日も経つのだけれど
冬休みが終わって学校が始まった。

その始まる前日・当日・翌日あたりは
やっぱりなんだか
緊張やざわめきや平気なふりや
苛立ちや不安や葛藤や
いろんなごちゃごちゃが湧いていた。
わたしにも、娘にも。


中でも、
気にかけてくれている人たちからの
「どうした?」
「行けた?」
「で、これからどうするの?」
「学校始まる日はつらいね」
「(行かせなきゃ駄目じゃないの)」
という、気遣いや詮索(失敬!)がやってきて
母親としては結構キツかった。


特に最後の
「(行かせなきゃ駄目じゃないの)」

これは、誰も言ってないのに
わたしには聞こえてしまう台詞で、
勝手に責められてる気になって
ひとりで戦ってる気持ちになったりした。
(ひとりで戦ってる気になるのは
わたしのパターンであって、
いろんな場面でそうなってしまう)


娘のタイミングで、と決めていて、
娘が自分の中から湧いてきた衝動で
たまらず踏み出す一歩を 
待とうと決めていて、

でも、
背中を押してあげたらいいタイミングには
それをしてあげたいとも思っていて

わたしはそれを見逃しているのではないかと
とても不安になることがある。


自分が不安になっている時は、
その不安に任せて干渉してしまいがちだと
(そしてその干渉は実際暴力だと)
わかっているので、
不安はわたしの中にとどめると決めている。
その時期は
じっと自分の不安とともに動かずにいる。


それは
やっぱり結構キツい。



子どもがピンチの時や
平常でない時
つらい状況がある時、
親もやっぱり辛くなる。

自分のことで悩むより
余程しんどいのではないかと思う。


そんな時は
誰かに辛さを聴いてもらったり
愚痴をこぼしたり
吐き出して、寄り添ってもらって、と
そんな時間が必要だ。




先日、思わず気持ちが溢れた時に
それをひとしきり聴いてくれていた後で
「でも、まぁ、
一番辛いのは本人だからね」
と言われて、
何故だか凍りついた。


すごくもっともな
そしてごく普通の言葉だし、
実際その通りだと思う。


それなのに、
とても抵抗を感じるわたしが居た。


その場では
「うんうん、そうだよね」と言って
その会話を終わりにしたけれど、
ずっと胸の奥にひっかかっていて
ときどき違和感を伝えてきた。



わたしは、
「わたしだって辛いのにー!」
って言いたいのだろうか?と思うと
それはゼロではないけれど
でも、スッキリしない感覚があった。


一番辛いのは本人だから、の
「一番」に引っかかっているのだろうか?
と思いついて、
それについて考えてみた。

辛さや大変さ、感情、
体験を比較するのは 
ナンセンスだと思っている自分がいるのは
確かだけれど、
でも、今引っかかっているのは
それではないと感じた。


なんだか、もっと、
文句や言い分ではない何か。

もっと、親としての矜持とか
志とか理想とかに関係あること。


そんな気がして
また思いをめぐらせていると…



わたしがしっかりしていたいのは、
娘の方が辛いからとか
そんな理由ではなく、
本人が一番辛いのだから
弱音を吐かないで頑張るとか
そういうのではなく

こんな状況だからこそ
わたしは娘の前で
しっかりと母親でいたいのだ
と分かった。


娘より大きく強く賢く優しい
自由を知っている存在である
「親」という立ち位置を崩したくないのだと
わかった。


娘の一番身近な大人として
しっかりと責任持って
覚悟を決めた上での自由を楽しみながら
全力で生きる姿を見せていたいと
思っている自分を感じた。


そのために
その自分の真ん中に戻るために
時に愚痴をこぼしたり
泣き言をいったりして
誰かに頼る必要があるんだ、と思った。


また“立”つために「泣」く。
真ん中に“戻”るために「涙」を流す。

それが必要な時があるんだと思う。



わたしが
そんな風に時にブレながらも
軸を整えて
しっかりしていたいのは、

本人が一番辛いのだから、とかではなく

「親だから」なんだと分かったら

とてもスッキリして嬉しくなった。


親であることが嬉しいし
そう思えることも嬉しい。


娘にとって
頼りになる親分でいようと思う。

立ち位置を崩すことなく
親で在りつづけたいと切に願う。


このタイミングで妹が見つけて送ってくれた写真。小さかったなぁ、かわいいな、大きくなったなぁ、と思い、でもそれだけでは済まないような涙が止まらなくなった。
親になれて嬉しいな、と思う。