ブルーハーツの「未来は僕らの手の中」を久しぶりに聴いた。

今になって思うのは、この「僕ら」という主語の眩しさである。

あの頃は、本当に未来は自分たちの手で変えられると思っていたのだろういや、正確には、そう信じることができた時代だった。

重要なのは「僕」ではなく、「僕ら」という言葉だ。

そこには仲間がいて、連帯があり、自分たちで時代を動かせるという感覚があった。反抗する相手も分かりやすかった。学校、会社、大人、国家。敵には名前があり、輪郭があった。だからロックは真っ直ぐ怒ることができた。

令和になり、同じパンクの系譜に立ちながら、まったく違う景色の歌を聴いた。

自爆というバンドに、「未来はない」という曲がある。

その歌に流れる空気は決定的に違う。

「未来は僕らの手の中」ではない。

「未来は誰かの手の中」「未来はヤツらの手の中」という感覚だ。

私はこの「主語」の変化に、四十年という時代そのものが映っているように思う。

「ヤツら」とは誰なのか。

政治家だけではない。

巨大企業だけでもない。

既得権益を持つ者。社会のルールを決める側の人間たち。生まれながらに多くを持つ者。そして、私たちの行動や選択を静かに左右するアルゴリズムや巨大なプラットフォーム。

努力しても簡単には届かない場所にいる存在。

こちらの人生には大きな影響を与えるのに、こちらからはほとんど影響を及ぼせない存在。

その曖昧な存在たちをひとまとめにして、「ヤツら」と呼ぶのではないだろうか。

昔は敵が見えていた。

だから殴る方向も分かった。

今は違う。

何かに支配されている感覚はある。

だが、その正体は霧のように曖昧で、怒りだけが宙に浮いている。

それは諦めではない。

時代の構造が変わったのである。

皮肉なのは、現代ほど「自分らしく生きろ」「挑戦しろ」「夢を持て」という言葉が溢れている時代はないことだ。

責任は個人に委ねられる。

しかし、未来を左右する決定権は、個人の手から少しずつ遠ざかっているようにも見える。

だから若者は、怒っているというより、どこか静かに疲れている。

ブルーハーツが「僕ら」と歌えた時代。

自爆が「ヤツら」と歌う時代。

その間に失われたのは、反骨精神ではない。

未来を自分たちの手で動かせるという実感だろう。

“I’m not angry. I’m disappointed.”

「怒っているんじゃない。失望しているだけだ。」

若い頃、この言葉は少し皮肉を気取ったロックスターの台詞くらいに思っていた。

だが今なら少し分かる。

怒りは消えていない。

ただ、その矛先が見えなくなっただけなのだ。

パンクとは、声を荒らげることではない。

時代がどれほど複雑になろうとも、自分の頭で考え、自分の言葉で世界を疑い続ける態度である。

未来は、本当に僕らからヤツらに奪われるのか。

その問いだけは、永遠に私たちの手の中に残されている。