日本人として忘れてはいけない、戦禍の記憶があります
3月10日、10万人もの一般市民が亡くなった東京大空襲
8月6日、広島
8月9日、長崎
8月15日、敗戦の日
12月8日、無謀な戦争を始めた日
そして昨日、6月23日は沖縄戦が終結した( とされる )日でした
1945年( 昭和20年 )3月26日、
日本本土占領を狙う米軍がまず目指したのが沖縄の占領、この日から約3ヶ月、現地住民を巻き込んだ悲惨な戦闘が沖縄全土で行われました
この時、海軍の司令官だったのが太田実さん
6月6日、もう抵抗の限界だった太田さんが本土の海軍次官宛てに送った電文、
有名な電文ですが、ここには沖縄の人への想いが綴られています
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にもかかわらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後世、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
現代語訳、Wikipediaより引用
これから政府要職に就く政治家には、常に心の内に覚えておいてほしいことばです
故郷が戦場となり、家族や多くの仲間を失い、戦後も土地を奪われ、基地が置かれ、同じ日本国民なのにまるで本土からは見捨てられたような扱い
現状、米軍基地を全廃という訳にはいかない、でも少しでも負担を減らしてあげたい
どうやったら痛みを分かち合えるのか、同胞として知恵を出しあおう
沖縄県の人たちが支払っている住民税相当額を、全ての本土の人間で負担してあげてもいいとさえ思います
沖縄戦の戦闘で失われた命は
米軍人、約2万人
日本軍人、約9万4千人
沖縄住民、約9万4千人
3ヶ月で約21万人もの尊い人命が失われました
摩文仁の丘には日米、軍人、民間人の区別なく、亡くなられた方々の名前が刻まれたモニュメントがあります
この悲劇的な歴史を私たち一人一人も胸に刻んで忘れないでおこう
後世に語り伝え、繰り返させないための想いを強く持つ日
沖縄の人たちと一緒に痛みを分かち合い、より良い未来を想像する日としたい