1970年代( 昭和45年 ~ 昭和54年 )

 

僕にとっては小学校入学 ~ 高校入学までの年代。正に少年時代、この年代の出来事を思い起こしてゆきます

 

 

 

 

 

昭和54年 ~ 高校1年

 

いろいろな事があり、生活環境も変化し、大人へと成長するための試練を味わった年、ぬるま湯に浸かっていた悪ガキを鍛え直す為に、神様から受けた昇級試験

 

そんな風に思い返しています

 

 

 

僕の入った高校は田舎のCランクの普通高校。ただ当時は相当荒れていた

 

 

 

入学式で驚いたのは隣町の中学から来ていた不良少年ども

リーゼントにソリ込み、ボンタンズボンに短ラン、

 

 

数年後に流行る漫画、『 ビーバップハイスクール 』を地で行くような連中が多かった

 

 

 

普通科3クラス、家政科2クラス( 女子ばかり )の5クラス

 

普通科には1クラスに3~4人こんな連中が居ました

 

 

 

一学期の前半は本当に酷く、不良少年どもは大概教室の後ろの席。

ここでコーラの缶を持ち込み授業中もシンナー吸引をしていたびっくり

 

ただ、ワル軍団の大半は1年生で中退していった

 

 

 

で、このオレはどうだったのかって?ニヤニヤ

 

ワルグループの中には何人か気の合う奴もいて、普通に接していました。

ただ当時から仲間内でツルむのが嫌いで、私生活での交流は無かったです、でもあの頃風にいえばこの『 ツッパリグループ 』結構女子にモテた

 

これは羨ましかったなあ

 

 

 

通学は自転車、当時のスラングでは『 ケッタ 』、いわゆるママチャリというヤツ。

ガニ股でこいで1時間近くかかりました

 

格闘技に心酔していましたので部活は柔道部に入部。又、高校入学と同時に空手道場に通い出し、授業後に柔道と空手を習いだすというハードなスケジュールでした

 

でもやっぱり持つわけがなく、柔道部は3ヶ月で退部

 

地道な練習と上下関係、柔道着の汗臭さ、空手に傾倒していたメンタル、などもあり、空手と柔道、両立出来たのは僅かの間でした

 

 

 

暫く “ 帰宅部 ” でしたが部活は義務だったので、その後は “ 写真部 “ に所属。

オタクっぽい子の集団であまり馴染めなかったのですが、割と自由に休めたので、ほぼ帰宅部と化していました

 

空手道場に行くまでの時間は川原で自主練習、コンクリートの上で拳立て伏せをし、樹木相手に突きの練習、すぐに拳ダコが出来ますあせる

 

 

 

通っていた空手道場は町の北外れにある小さな道場

 

 

 

中学時代同じ部活で、全く身が入らなかった友人同志のNと、Nの幼馴染のAと三人で通うことに

 

 

 

ブルース・リーや極真空手が好きだったN、

 

Aは中学時代は全く接点が無かった。体が小さく周りからよく見下されていて、そんな反発心からかやたらと負けず嫌いで、格闘技に向いている

 

僕は四角いジャングルを観てベニー・ユキーデに憧れていました(笑)

 

三人三様の理由から高校入学と同時に空手道場に通うことに

 

 

            

 

 

 

 

元々子供のころから、アニメ、タイガーマスクに感化され、少し大きくなるとテレビでプロレスを見まくっていた

 

血が疼きだしたといったところでしょうか

 

 

 

道場の先生( 師範・館長 )、M館長は当時20代の若い方

 

今思うと、顔つきやストイックな雰囲気がイチロー選手に似ていた

夕方早い時間は子供たち、その後夜は青年部と、二部教えておられました

 

この流派、当時は珍しかったフルコンタクト( 直接打撃 )で、これも入門したきっかけです

 

 

 

ここの流派のエースといえた存在が、あの青柳政司さん

 

 

 

 

極真のオープントーナメントに他流派でありながら参加し、ベスト16

 

大会では青柳さんが出てくると声援がスゴかった

 

後にはプロレスラーとなり活躍、数年前に亡くなられましたが、華のある方でした
 

 

 

 

道場にはサンドバッグが吊るされ、パンチングミットやバーベルもあった

当時の伝統的な空手道場とは一線を画していた

 

 

 

 

 

M館長は厳しかった

 

腹筋500回、拳立て伏せ100回が通常ノルマで、限界に近くなると大声でハッパを掛けられた

 

 

 

 

ある日は、社会人の先輩と模擬組手、でも手加減無しの先輩

 

前蹴りをみぞおちにもらい入り悶絶、

試合なら一本負けの状況、でもM館長は止めてくれません

 

数十秒沈黙の時間が続きなんとか立ち上がると、館長がヨ-シっ!と一声、

その後道場生みんなが拍手してくれ、アドレナリンが出まくりました

 

こういう経験を何度もし、道場に通うのが楽しみになって行きます

 

 

 

 

 

昭和54年の秋頃、家庭に変化が起きます

 

暫く一緒に暮らし、その後故郷の大阪へ戻っていた祖父が亡くなりました

本当に可愛がってもらい、2年前の夏に甲子園に連れて行ってもらった事が最高の思い出です

 

 

 

その後暫くして親父が家を出て行った、サラ金に多額の借金をして・・・

 

 

 

 

また、オフクロも再婚しました

毎度家に来る借金取り、子共二人はまだ頼りない、心細かったんでしょうね

 

 

 
 
アルバイトも始めます
 
こんな家庭状況で高校まで行かせてもらい、もう小遣いは貰えません。
校則でアルバイトは禁止されていたので発覚するとペナルティーがあった当時、
でも僕らの学年は結構バイトしている奴は多かった
 
 
 
最初に始めたのが新聞配達、想像以上に重労働で、自転車で早朝から走り回り約百件の配達、それで月に9,000円くらい
 
2ヶ月で辞め、自宅から自転車で30分くらいのうどん屋に鞍替え、時給は380円でした。その後、向かいにあるバッティングセンターにまたまた “ 転職 ”。
理由は、時給400円という “ 高給 ” と、ゲームコーナーが悪ガキどもの溜り場となっていて、楽しそうだった職場環境、中学校の先輩も居て馴染み易かったこと
 
この頃から仕事に関しては腰が軽かったてへぺろ
 
  

 

 

 

平日は空手道場とバイト、土日もバイト

勉強なんかしている時間はありません、でもとても充実していたなあ

 

 

 

 

 

当時よく観ていたテレビが、『 西部警察 』、『  熱中時代・刑事編 』『 西遊記 』

 

とにかく渡哲也さんがカッコよかった

 

 

水谷豊さん、共演し妻役だったミッキーさんと結婚したんでしたね

 

 

 

美しい夏目雅子さんとコミカルな西田敏行さんがよかった

 

 

ゴダイゴの歌うテーマソングも大ヒットしました

 

 

 

 

それから、僕はあまり観ていなかったですが、大ヒット番組が

 

 

 

 

こんなゲームも大ヒットしました、インベーダーゲーム

 

 

 

 

これもヒット曲、不良軍団に大人気でした

 

 

 

 

僕が好きだった歌は

 

チンペイさんのご冥福をお祈りいたします

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勉強もせずに読み耽った漫画『 1・2の三四郎 』、

ヒロインの志乃ちゃんが大好きでしたラブ

 

 

 

 

よく聴いていた深夜放送、オールナイトニッポン

中島みゆきさんは確か水曜日だったような・・・

 

 

この人のMCは重厚な持ち歌とは全く違う、超ハイテンションぶりに驚きましたびっくり

 

他の曜日も、松山千春さんやタモリさん、所ジョージさん、たけしさん

今考えるとスゴいメンバーでした

 

 

 

 

 

1979年の出来事

 

* 三菱銀行人質立て籠もり事件

* 『 ズームイン朝 』始まる

* 埼玉初のプロ野球球団、西武ライオンズ誕生

* イギリスで初の女性首相、マーガレット・サッチャーさん就任

* 江川投手、小林繁投手とのトレードで巨人に入団

* 東名高速日本坂トンネル事故

* 夏の甲子園、星稜 ー 箕島、伝説の延長18回

* 高校野球、箕島高校春夏連覇

* プロ野球日本シリーズ、広島が近鉄を下し初の日本一、江夏の21球

 

 

     

 

       

 

 

 

 

 

 

1979年、悪ガキ小僧が大人へのスタート地点に立った年

 

祖父の死、親父の蒸発、家庭の借金苦、乱れかけた高校生活、頑張ったオフクロ、

初めて味わった社会の厳しさ、思い返すと、いい事も悪いことも含め、濃密な経験が出来た年でした

 

そういえば、親父の件でとても心配してくれた高1の担任のT先生、オレが無断でバイトしているのをどうも知っていて、黙認してくれていたみたい

 

今更ながら感謝しております

 

 

 

殆ど勉強などしなかった高校生活、でも空手道場もバッティングセンターのバイトも楽しかったなあ。週末は悪友の家に行き徹夜麻雀もしました、みんなでビールを飲み、エロ本を見ながら、もちろん現金も飛び交いましたよあせる

 

よく留年せずに卒業出来たと思う(笑)

 

こんなバカ息子に何一つ口出しせず見守ってくれたオフクロと再婚相手のSさん

 

 

 

空手で繋がった親友、NとA、結婚し子どもが出来る頃までよく会いましたが、最近はもう殆ど疎遠になっています

 

Nは地元の信用金庫の支店長代理、Aは大手自動車部品メーカーの守衛をしていたようですが、今どうしているんだろう、またいつか会いたいね

 

 

 

この年経験したことを糧に大人になり人生を歩みますが、この先もっと厳しい場にも遭遇します

 

いろいろな場面でまだまだ人生経験が足らないなあと、最近よく痛感します笑い泣き