春日真木子先生 初学講座 第四回   戦後の女性の歌
 
・ 女性の写実 斎藤史、中城ふみ子、長沢美津
・ 近藤芳美と土屋文明を継いだ女性たち 河野愛子、三国玲子
・ 写実の中の感覚と飛躍  尾崎左永子、馬場あき子
 
今回は
 
・ 女性の写実  斎藤史、中城ふみ子、長沢美津
 
 一般に、写実の短歌は男性に向いていると言われていました。しかしあの女性歌人たちも写実をきちんと押さえ、歌を残していました。 
 
のお話の部分です。
 
 
 
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 写実というのはリアリズムですよね。やはりみなさん歌をお作りになる上で基礎的な要素となるのは写実の歌なのです。だから写実の歌をしっかりと読んでおいて、飛躍をなさると良いと思います。それで写実の歌とはどのような歌かという訳で、今日の歌を(学びます)。
 
 写実とは現実を写すということね。正岡子規が提唱し、アララギ系の人が採った。正岡子規の写実は物のありのままを客観的に具体的に描写する。斎藤茂吉の 写実は写生を突き詰めていくその先の象徴ということだった。島木赤彦は物の中に滲み入って中心をつかまえると言った。土屋文明は人間の底に溜っている物を 吐き出す人間的な歌だった。
 そういうものが写実なのですよね。それでアララギの歌人たちによって写実というのは本当に戦前まで歌壇の中心にあった。アララギ中心であったということはしっかり覚えていてちょうだいね。
 
 
 ところがね、男性に写実は向いているのよ。女性の情操的な良さというものを表すには写実は不向きなの。極端に言うならアララギは女の歌をころしたとまで言われています。それはね、戦後釈超空、折口信夫が言ったことなのですけれど。そのような折口信夫の言葉もありつつ戦後初めて女の自我というものが認めら れた。戦前は認められなかった女の自我がやっと認められそうして昂揚したのですよ。
 
 今日は根本としての写実の歌を知ってほしいと思い女性の写実の歌を選びました。
 
 
 水鳥の胸におされてひそやかにもり上がるとき水は輝(かがよ)ふ
  斎藤 史   昭和26年
 
 
 よく見ているでしょう。水鳥がまるい胸をしていますね。それでそれが水を押し分けて、胸におされて水が盛り上がってくるの。水が盛り上がるその時に、〈 水は輝ふ 〉というのです。これはよく見た歌です。水鳥はどこでも見ることができる、あの丸い胸に圧されて密やかに水は盛り上がる。そしてその水が輝く。今であれば当たり前だと思うけれど、こういう歌が先にあって当たり前と思うようになったのよ。そういうことを思ってくださいね。
 
 斎藤史はアララギの歌会に行っています。前川佐美雄の弟子ですけれど、最初は土屋文明のところにも行っているのです。だから写実の歌もきちんとできるのです。
 
 
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  脱衣せる少女のごとき白き葱水に沈めてわれは寂しゑ
   中城 ふみ子
 
 
 葱の歌はみなさんよく詠うでしょう。だからお葱の歌を一つ入れてみました。少女のごとき、お葱って使う前に必ず剥くでしょう、その時に真っ白な身が すぅっと出る。あれは歌になるわよ。この時瞬間が歌なのよ。そこに詩が生まれるのよ。それを〈 脱衣せる少女のごとき 〉と言った。これは比喩です。見立て、と言ったらいいのかな。これが上手いと思う。中城ふみ子にもこういう歌があることを言いたかった。
 
 でもこの人はアララギ系ではありません、「 潮音 」というところに入っています。
 
 
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  祝宴につらなる人の絨毯を踏む靴先のひかりてつづく
   長沢 美津
 
 
 長沢美津さんはアララギ系です。葛原妙子、森岡貞香らと一緒に「 女人短歌 」を立ち上げた人なの。やがてはその「 女人短歌 」の発行責任者になります。日本女子大の国文科を出ているのよ。アララギ系の古泉千樫に師事をしています。
 〈 靴先の光 〉、これは祝宴、例えば結婚式の披露宴などはこういう調子ではないかな。連なっている人たちが絨毯を踏んでいる。皆靴の先がピカピカ光っている。靴先が 光って「 続いている 」これが写実の見方。これが大事。靴先が光っているだけではあまりよくない。光って続いているというところが歌なのよ。
 焦点の絞り方ね。これがこつですよ。短歌はこつを覚えること。焦点を絞るそのこつはどこにあるか。
 
 
  こういう動きを目に留める。
 
 
 大抵披露宴ならモーニングなど絢爛たる衣装で並んでいる。それが靴先だけに目が行っている。それをメインにする。それで喜びの心というか祝福の心が靴先の光で見えるじゃない。明るい歌ですね。これは大事な歌です。わたしはこの歌が長沢美津さんの代表歌だと思います。これは昭和四、五十年位の歌だと思います。