春日真木子先生 初学講座 第五回 滅びない前衛
・ 塚本邦夫の歌 表現の変革とニヒルな眼差し。
・ 岡井 隆の歌 ロマンと想像力をもって社会を詠む。
・ 寺山修二の歌 瑞々しく歌を作り上げ、
瑞々しく読者に与える。
今回は
・ 寺山修二の歌 瑞々しく歌を作り上げ、
瑞々しく読者に与える。
のお話の部分です。
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森駆けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし
『 空には本 』 寺山修司
さあそこへ昭和二十九年、寺山修司が十八歳で歌壇に出てくる。この間中城ふみ子もやりましたね。中城に続いて短歌研究賞をもらう。中井英夫が与えたわけですけれども。十八歳ですからいかにも瑞々しい軽やかなリズムで、それから現代語の感覚というのかな、そういったものを掴んでいる。みんなに広く愛唱されたの。
紫陽花というとみな綺麗だと詠むけれど、この人は〈 紫陽花くらし 〉と詠んだ。それで森の奥を駆け抜けてきて。顔が火照ったのでなく〈 頬 〉が火照っているというのがいい。それをうずめんとするに紫陽花は冷ややかな、この紫陽花は冷ややかなのではないかと私は思っています。
瑞々しく詠む。単に瑞々しいのではなくて瑞々しく歌を作り上げるもの、読者に瑞々しく与えるもの。これが寺山修司の歌です。今の歌などはそうだと思うのよ。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
この歌は有名な歌です。若い時の歌です。十八歳の時の歌でしょうね、やっぱり。少女が私は海を知らないわと言う。そうしたら麦わら帽をかぶった自分が海はこんなにも広いのだよと両手を広げて海の広さを見せる。海の豊かさを見せる。目に見えてくるような歌だからこれはわかりやすいですよね。こんなに海というものが明るく映ったというのは例がないことでした。わかりやすい歌でしょう。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
さあ、その次が一番の代表歌になっています。これは作家なども時々ふっと引用していまして、祖国ということを言う場合。日本の祖国というものが違ってきているの。終戦によって。それでよく採り上げられる歌です。マッチをすると霧が深くて見えない。ぼおっとして。その中で作者の心を捉えようとする。祖国とはなんだろうと。一世代前の人達は皆我が身を捨てたじゃないですか。天皇陛下のために、国家のためにと、みんなが特攻などになって我が身を捨てねばならなかった。そういう祖国は今どこにあるのだと、そういう問いかけの歌ですからこれは厳しい歌ですよね。本当に。太平洋戦争で傷を受けた人がどれだけ多くいましたか。それが( それなのに )終戦とともにみんな祖国というものを失ったわけです。喪失感です。だからよりどころを失った青年の心というものを非常によく詠われていると思うのですよ。
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こういうふうに印象を残すじゃない、読者にね。この歌を作って五十年以上経ってまだ滅びない。やはり上手い。短歌研究の( 平成二十七年 )七月号に、巻頭。ここに私達の先祖尾上柴舟が出ている。
今の世は来む世の影か影ならば歌はその日の予言ならまし
尾上柴舟
これは柴舟が二十歳代の歌なの。ですから本当に百年以上経った歌だけれどもこの歌は今通用する歌だということを力説しているのですけれども。だから正岡子規と違うのは、正岡子規はその日の現実を詠っています。尾上柴舟は百年先を詠んだ。
やはり詩人というのは予言ができなければだめなの。
だから尾上柴舟ってすごい人なの。この一首を見てもわかる。百何十年たってこの歌がまだ生きるということはすごいことなの。寺山修司にしても岡井隆にしても塚本邦雄にしても、前衛短歌から五十年六十年経つのに未だに滅びない歌を作った。その後も前衛短歌はどういう影を引いたかといまだに取り上げられている短歌運動です。
・ 塚本邦夫の歌 表現の変革とニヒルな眼差し。
・ 岡井 隆の歌 ロマンと想像力をもって社会を詠む。
・ 寺山修二の歌 瑞々しく歌を作り上げ、
瑞々しく読者に与える。
今回は
・ 寺山修二の歌 瑞々しく歌を作り上げ、
瑞々しく読者に与える。
のお話の部分です。
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森駆けてきてほてりたるわが頬をうずめんとするに紫陽花くらし
『 空には本 』 寺山修司
さあそこへ昭和二十九年、寺山修司が十八歳で歌壇に出てくる。この間中城ふみ子もやりましたね。中城に続いて短歌研究賞をもらう。中井英夫が与えたわけですけれども。十八歳ですからいかにも瑞々しい軽やかなリズムで、それから現代語の感覚というのかな、そういったものを掴んでいる。みんなに広く愛唱されたの。
紫陽花というとみな綺麗だと詠むけれど、この人は〈 紫陽花くらし 〉と詠んだ。それで森の奥を駆け抜けてきて。顔が火照ったのでなく〈 頬 〉が火照っているというのがいい。それをうずめんとするに紫陽花は冷ややかな、この紫陽花は冷ややかなのではないかと私は思っています。
瑞々しく詠む。単に瑞々しいのではなくて瑞々しく歌を作り上げるもの、読者に瑞々しく与えるもの。これが寺山修司の歌です。今の歌などはそうだと思うのよ。
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
この歌は有名な歌です。若い時の歌です。十八歳の時の歌でしょうね、やっぱり。少女が私は海を知らないわと言う。そうしたら麦わら帽をかぶった自分が海はこんなにも広いのだよと両手を広げて海の広さを見せる。海の豊かさを見せる。目に見えてくるような歌だからこれはわかりやすいですよね。こんなに海というものが明るく映ったというのは例がないことでした。わかりやすい歌でしょう。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
さあ、その次が一番の代表歌になっています。これは作家なども時々ふっと引用していまして、祖国ということを言う場合。日本の祖国というものが違ってきているの。終戦によって。それでよく採り上げられる歌です。マッチをすると霧が深くて見えない。ぼおっとして。その中で作者の心を捉えようとする。祖国とはなんだろうと。一世代前の人達は皆我が身を捨てたじゃないですか。天皇陛下のために、国家のためにと、みんなが特攻などになって我が身を捨てねばならなかった。そういう祖国は今どこにあるのだと、そういう問いかけの歌ですからこれは厳しい歌ですよね。本当に。太平洋戦争で傷を受けた人がどれだけ多くいましたか。それが( それなのに )終戦とともにみんな祖国というものを失ったわけです。喪失感です。だからよりどころを失った青年の心というものを非常によく詠われていると思うのですよ。
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こういうふうに印象を残すじゃない、読者にね。この歌を作って五十年以上経ってまだ滅びない。やはり上手い。短歌研究の( 平成二十七年 )七月号に、巻頭。ここに私達の先祖尾上柴舟が出ている。
今の世は来む世の影か影ならば歌はその日の予言ならまし
尾上柴舟
これは柴舟が二十歳代の歌なの。ですから本当に百年以上経った歌だけれどもこの歌は今通用する歌だということを力説しているのですけれども。だから正岡子規と違うのは、正岡子規はその日の現実を詠っています。尾上柴舟は百年先を詠んだ。
やはり詩人というのは予言ができなければだめなの。
だから尾上柴舟ってすごい人なの。この一首を見てもわかる。百何十年たってこの歌がまだ生きるということはすごいことなの。寺山修司にしても岡井隆にしても塚本邦雄にしても、前衛短歌から五十年六十年経つのに未だに滅びない歌を作った。その後も前衛短歌はどういう影を引いたかといまだに取り上げられている短歌運動です。