大阪関西万博へ行ってきた。大変疲れたが各国のパビリオンのユニークさと訪れる多彩な人々に別世界の国際感覚を学ばされる。
今回の万博へ行って改めて気づいたのは、自分の人生の大部分を統治体の間違った教えで人間が持つべき正しい考え方を持てなくされていたということだ。聖書の教えではない。統治体の教えだ。聖書の教えは多くの気づきと賢明な生き方を示唆するものである。
少しタイトルとはずれるが、私の人生は聖書の教えで保護されていたという部分もある。中居正広事件や渡瀬元県民局長事件のように、己の性欲の思うがままに蛮行を繰り返して汚名にまみれる人がいる。しかし自分がもし聖書を学んでいなければ、その様な卑劣なことをしていなかったかというと自信はない。それ他にも汚職やギャンブル、喫煙、大酒、窃盗、暴力、不倫等々、自分がそれらに手を染めない人生を過ごすことができたかといえば、それにも自信はない。そういう誘惑に染まらないようするブレーキをかけたのはまさに聖書と神の存在を意識したからこそである。
一方で統治体の教えとは、エホバの証人だけがハルマゲドンで救われるとか、世と交わらないことを推奨するといった排他性、「自分の理解による」ことは悪であり統治体の指示に従うことの重要性などである。輸血拒否、高等教育拒否など独自の理解も含む。これらの教えの影響は私の人生を少なからず壊していたものだ。
閑話休題。
そこで万博の話だ。ここでは様々な宗教や文化、習慣などを持つ人々が集う。各国パビリオンではそのガイドが例えば独学で日本語を勉強し、言葉が通じない分一生懸命笑顔で接してくる。人間の本質は決して変わらない。
アラブ首長国連邦の前を通ると二十人くらいの男性が何か歌を歌っていた。その歌詞の意味をガイドに尋ねると、これは歓迎の意味があり出会いを喜ぶ歌であるという。この国はイスラム教であるが、しかし他の宗教に対しても受け入れているということだった。
イスラム教はキリストが亡くなった後で生まれた宗教である。聖書にはキリストが全世界の人に宣べ伝えよといっているが、だったらキリストの教えがその後世界を席巻するはずなのに、キリストの教えがあったのちにイスラム教が生まれ、それが世界の人口の3分の1にまで広がるというのであれば、客観的に見ればキリストの教えは全世界に影響は与えはしただろうが浸透したわけではない。
ところがエホバの証人はエホバの証人以外は大いなるバビロンと言ってハルマゲドンですべて滅びると教える。最近は若干、変化が生じ「誰が救われるかはわからない」とは言ってはいる。しかしそれならば離れた人に対し「救いのために戻ってきてくださいということはないだろう。その言葉そのものがエホバの証人でなければ救われないという考えの裏返しだからだ。
もし私が今なおエホバの証人のガチガチの信者ならば、私が万博会場にいて、アラブ首長国連邦のガイドと話しているその時にハルマゲドンが到来したならば目の前にいるガイドはもちろん、万博会場にいる世界中の人たちが私の眼前で死ぬことになる。
それが神の目的になるだろうか?聖書はそのようなことを教えているだろうか。
否!
というのもパウロはローマ人への手紙の中で「諸国民は心の中の律法、すなわち良心を持っている」と言っている。この言葉の意味するところはたとえ諸国民でも良心に従って行動するならばその律法に従っているということでパウロはそれを咎めていないわけだ。だとするとそういう人たちもまた救われるということになる。
エホバの証人としての活動をやめることは、同時にエホバの証人の思考を捨てることを意味するが、それでも聖書の教えは残る。統治体は聖書の教えを撒き餌(まきえ)にして、自分たちの教えを混ぜることで信者を獲得しようとしてきたが、今その振るい分けが大事だと思っている。
