一般的には解放は自由を意味し、それは不幸からの脱却、幸福になるとみなされます。それは全く間違っていません。
いわゆる”人質”になっている人たちが解放され、家族との再会を喜ぶシーンを私たちは知っています。
聖書でも「罪からの解放」で自由になって幸福になれると言っています。
ところが最近それがいつでも100%当てはまるかというとそうでもない気がします。
まえにも書きましたが、私はハッシュタグ闘病記とテーマの記事を時々読みます。そこには末期がんにかかった家族に寄り添う人たちがその記録をつづっている様子がうかがえます。
家族にそういう人がいると介護や看護はとても大変なことだということがわかります。費用はもちろん、そのほとんどの時間をとられるわけです。
それでも少しでも生きていてほしいという願いを持ち続け莫大な犠牲を払っています。それは世話をする人の多くの時間と自由を拘束します。やがて「その時」が来たときに、心を襲う喪失感に耐えきれなくもはや自分が生きている意味すら感じない方々もいらっしゃいます。
確かに「自由」になったのですが、それで即「幸福」になったかというとそうではないのです。患者の世話をしていることがもはや生き甲斐となっており、その生き甲斐を奪われたのです。過去の思い出が常によみがえり、その楽しかった日々のことが忘れられないのです。
7年前に起きたやまゆり園事件では、重度障碍者のわが子を奪われた父親が、自らががんの宣告を受けたときに治療を拒否しました。
重度障碍者の子供を抱える親はきっとさぞかし大変なので、亡くなったのは残念なことだが、介護から自由になったことだし、これからは自分のためにお金と時間をかけて幸福になればいいとあなたは2017年当時この父親に向かって言うのでしょうか。全国にいるそういう親にあなたは言いますか?
そういった人たちの心を思いやる心をあなたはお持ちですか?
確かに喪失感ゆえに打ちひしがれた心は決して健全ではないと、他人は言うかもしれません。でもそんなことすら許さない人間が果たしてどんな人間か、推して知るべしでしょう。エホバの証人が聖書を学んでいるのに愛がないというあなたは、そういう思いでいる人たちに「自由になってよかったね」というのであればあなたも聖書を学んで愛がない人ではないでしょうか。
今のエホバの証人に向かって「そこから出なさい。自由になって幸福に暮らしましょう」などという人間が実に多いのですがそれと同じです。「そこにいる人」は確かに多大の犠牲を払っているわけです。そこで「そんな無駄なことをするのをよしなさい」という人もいます。でも本人がそれで生き甲斐を得ているなら、それを奪おうとする行為は残虐で、傲慢であり、無理解の極致です。
ではあなたはそれに代わるものを提供できますか。無信仰な人たちがたまに集まって開くオフ会など屁のツッパリにもなりません。無責任にもほどがあります。自分は家族を設け、子供もいてる境遇で、上から目線で信者に対しそういう発言をする人の心根を疑います。
いわゆる「宗教2世」が自分の受けた被害を訴えるのはどんどんやればいいのです。しかしだからと言ってそこにいる人たちに「そこから出ましょう」というのがいかに傲慢であるかは、エホバの証人が「大いなるバビロンから出ましょう」と言って他人の宗教を否定する傲慢さに通じます。
「解放」されたからといって自由になって幸福だということにつながらない場合もあるのは、自分が献身的に時間と労力を捧げた相手を一方ならず愛してるからです。その愛は第三者には理解できないものです。
同様に神を愛しているエホバの証人は、その愛を表明する機会を組織が与えてくれると信じているので、惜しみなく時間と労力を捧げているのです。それをあなたは奪い去ろうとするのでしょうか。神を信じないあなたが当然神など愛していないから言える言葉なのです。それは「信教の自由」を認めない姿なのです。信者になった家族を救うといって、「正義漢」を振りかざして戦う人の戦いがたいてい敗北する理由はそこにあるのです。それは非信者の格闘記を見ればわかることなのです。
私はエホバの証人を辞めて多くの拘束から離れたと思いますが、しかし純粋に信じていたころの充実感を味わっているかというとそうでもないのです。だからこそ過去の充実していたころのことを懐かしく思うのです。