「エホバの証人になる前は進化論が正しいと信じていた」
この表現は正しいものとは思えません。
「進化論が正しいと思っていた。」
ということですね。
「そう信じる」と「そう思う」は英語ではそれぞれ I believe itとI think soと表現します。
soはitよりも不確かなものを表します。
要するに「進化論が正しい」というのは周囲がそういっているし、学校でもそう教えるからで、実際に進化論を学習、研究したわけではないのです。
ということは「エホバの証人の教えを信じていた」という2世にしてみれば、「信じる」というよりも「思っていた。」の色合いが強いのでしょうね。
進化論者は十分研究して、今では進化学と呼んだ方がいいと、進化が確立した事実であるかのように言いますので、そういう人は進化論を信じているのでしょう。
で、そういう進化論を信じている人たちの説明を聞いても私はますます進化が信じられなくなるのです。
例えば神を信じる人が「人間がサルから進化したのであるならば、その中間形態が存在しないのはなぜか」と疑問を投げかけると、進化論者はここぞとばかり「いや人間がサルから進化したのではなく、サルと人間は最初同一のものだったが途中から枝分かれをして進化したのでサルから直接人間が進化したのではない(バカだなあ)」と得意げに言います。
だったら「その枝分かれをした時点から今に至るまでの中間形態が存在しないのはなぜか」と聞くと「中間形態は新種によって絶滅させられた」と言います。
「ではなぜその必要性があったのでしょうか。絶滅させられたという証拠があるのか、もし現生人類ならば何らかの記録を残すはずです。」と尋ねると「まだ文字が発明されなかった」と答えます。
「ではなぜ文字がそれまで必要のないものならばわざわざ発明したのか。文字がなくても意思疎通はできるはず。サルは文字の必要性を感じことがあるのか」というと「文字によって記録を残すことができる。」と言います。
「ではなぜ記録を残す必要性があったのか」と尋ねると「わからない」と答えます。
これのどこが確証された科学なんでしょうかね。言っておきますが人間の進化は実験室で再現できないものなのです。STAP細胞と同じですね。
「STAP細胞はありまず」と「進化はあります。」というのは似ています。
論点の飛躍が源義経の壇ノ浦での八艘(はっそう)飛びか、弁慶との対決で五条の大橋の欄干をひらりひらりと飛ぶさまのようですね。弁慶はめまぐるしく動き回る義経に惑わされ義経の術中にはまり敗れました。
進化論者の説明なんて皆そのようなもの。何やら科学的に難しいことを言ってあれこれ言うのは学習者の思考を惑わしているようなものです。
ま、何が言いたいかと申しますと「カルト宗教信じてました。」は「カルト宗教が正しいと思ってました。」だということで、信じるほど熱心に勉強したわけではないというなんすね。本当に創造なんか信じちゃいなかったんですよ、最初から。