”特権”という建材を使い、体罰という突貫手抜き工事を勧めた結果、ツケを払っている日本支部 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

燃えやすい建材で家を建てるというのはどのような形で行われたのでしょうか。

 

それは「特権」という建材です。

 

能力のある2世男子が一般の世での出世をあきらめざるを得ない状況に追い込まれ、それでも普通の人間並みの自己顕示欲と向上心を満たすにはどうすればよいかを考えたときに、目の前に特権というニンジンをぶら下げられたのです。

 

おそらく多田文明もそのほか大勢のメディア関係者もそして外部のものには多分理解できないでしょうが、エホバの証人社会において特権というものはいかに生活全般にわたって動機付けや意欲のエンジンをふかせるものなのです。

 

エホバの証人2世の場合、早ければ小学校低学年で演壇から時には100名を超える大人を相手につたない話をする機会があるのですが、それでも万雷の拍手と称賛を得ます。これは大変気持ちの良いものです。

 

そしていかに能力があり、尊敬できる長老でも、その長老を指導する立場の巡回監督に平身低頭傅く姿を見ると、「将来の目的は巡回監督だ」という子供が本当に多いのです。

 

ところがこの特権なるものは、少しでも失敗をするとすぐに取り上げられますので、実ははかなくて燃えやすい建材になるのです。その時にそれを生き甲斐にしていた男子は「自分という家」をなくし、自分を全否定されたように感じるのです。

 

例えば地震や台風などの天災や山火事などで自分が全財産をかけて建てた家が焼失したときに、受ける衝撃はそれまでの人生をなくすと感じる人もいるでしょう。それと同じなのです。

 

さらにその燃えやすい材料を使ってとにかく早期に「家」を立てなければならないと親は焦ったのです。添えはハルマゲドンが近づいているという動機です。そこで親は激しい体罰を加えました。それはまるで突貫工事ですが、えてして突貫工事は手抜きが付きまといます。

 

親は子供がどういう動機でエホバの証人の活動をしているか、その心の深いところを観察することをしないで、ただ目先の特権をこなすことで満足するのです。そしてその親の思惑通りに子供が動かないときに体罰を加えました。

 

子供が「親を喜ばせるために」信仰活動をしたというのは、裏を返せば親からの体罰からの緊急避難だったのです。そしてその緊急避難先で特権をとらえると自分の本心をとりえず、ごまかすことができます。そして「親を喜ばせる」ことで親からの体罰をできる限り減らすことができるのです。

 

親は体罰をすればいうことを聞くと思っていますので、その考え方そのものが手抜き工事をした何よりの証拠です。

 

田中弁護士もネオさんも優秀な方々です。ネオさんは独学でSEの資格を得、今では東証プレミアム上場企業に中途採用されたとご本人は言っています(まあ過去の例から見て眉唾ではありますが。)当然組織内での特権に対する志向は強いでしょう。そしてこのお二人の更なる共通点はお二人とも親から激しい体罰を受けたというところもあります。

 

私は信仰形成、そしてエホバの証人活動をする各段階で体罰を受けたことは一度もありません。1世はみなそうです。しかし2世の場合体罰によって強制させられたのですから、信仰の選択という極めて個人的に重要な選択を自分で行えなかったというのは自尊心を大きく傷つけ、自分の本心をごまかしながら生きてきたことへの悔しさは測りしれないものだと思います。実際自分が周囲の大人の手抜きで仕立てられたという思いはするでしょう。この点は深く感情移入をします。

 

そういうところから見ても燃えやすい建材で家を建てたのです。田中弁護士はブログで解説しておられるようにエホバの証人の教義には精通しておられます。しかしコメント返信では創造は信じていないとも言っていました。エホバの証人の教義など手前勝手でつぎはぎだらけですのでそれもまた燃えやすい建材と言えるでしょうね。ところがエホバの証人の場合、個人研究と言えば出版物の研究であり、聖書の考察ではないのです。あくまでも統治体の聖書解釈を自分のものにしているだけなのです。

 

一例として聖書を注意深く研究すれば1世紀に統治体など存在しなかったのは明らかですが、統治体は自分たちの権威付けのためにありもしない架空の存在である統治体なるものが存在したと主張します。そういう出版物の研究が個人研究なのです。

 

聖書を研究すれば1世紀に統治体は存在しなかったことが理解できますが、ものみの塔の出版物を研究というか自ら進んで洗脳されようとするならば1世紀の統治体の存在を否定すれば背教者になるのです。

 

こういった教育制度では、自己顕示欲と虚栄心が強く、向上心にたけた男子の心の中にまともな信仰など築かれるのはなかなか期待できないのです。

 

日本支部の支部委員が平気でうそを吐けるのも、統治体の出版物の研究で培った信仰しか持っていないからです。創造者に対して真に畏怖の念を抱いた敬虔な信仰を持っていたならば、嘘を吐けるはずはないのです。

 

「組織に対して不満を持つ一部の人」というのは日本支部広報が、不満を述べる人たちを明らかに蔑み、特権競争に敗れた者たちのたわごと、戯言だどみなしているから出る言葉ですね。