最近は高齢者が事故を起こすと必ず年齢が注目され、高齢ドライバーの肩身が狭くなっているなと感じます。
事故を起こした人たちはちょうど今の私と同じように「自分は大丈夫だ」と思っていることでしょう。
話がそれますが、ウロ戦争やハマスの蛮行そしてガザへの空爆でクローズアップされるのが子供たちの被害です。
幼い子供たちが血まみれになった泣き叫ぶ姿は痛々しく出なりません。
しかし人が予期せぬ死で出くわすのは何も戦時下に限らず、例えばここ日本でも交通事故によって毎年数百人の命が奪われています。
登下校の時間帯に学校へ通う子供った胃の姿を見ていると「きっと親はこの子どもが無事に帰ってくれることがごく普通の日常だと思っているんだろうな」という思いがします。
まさかその子が事故にあって「変わり果てた姿」になって帰ってくるとは思いもしなかったことでしょう。その親の悲しみを創造すると「絶対に事故を起こしてはならない」と思うようになりました。
子供のみならず、大人や高齢者に対しても、きっと家族がいるだろうなと思いを馳せます。
「この高齢の男性や女性には、慕ってる子や孫がいるだろう。」
病院に行くと高齢者の車いすを押している子供或いは嫁の姿をよく見かけます。
高齢の夫婦が沈痛な面持ちで消化器外科の神慮室の前に言葉も交わさずにいます。
高齢だからと言ってその人を愛する人がいないわけではありません。
主婦であるならば
「この奥さんの料理を楽しみにしている夫や子供いるだろうな。」
車を運転していて、人が歩いている姿を見てぼんやりそんなことを考えています。
ですからこの方々の命を奪い、家を出たときとは全く異なる、変わり果てた姿にしてはいけない。
この方々が無事に家に帰ることができるようにするのが車を運転する自分の責任だ。
そう思うのです。
誰もが経験することですが、老化に伴って運転する危険はますます大きくなります。
どの部分が老化するという自覚がなくても、必ず老化はしているんだという認識が必要かと思います。
ですから、車の運転はできるだけ慎重になり、譲り合いの気持ちを忘れるようにしなければならないと思っています。
今にして思えばエホバの証人で若かったころは「いつ人を殺してもおかしくない」ような運転を時々していたなと恐ろしくなることがありますね。