生まれたばかりの赤ちゃんを「神の敵」と表現したスティーブンレットは背教者の教えを蔓延させた | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

統治体成員スティーブンレットが実は過去のものみの塔が指摘した、背教的考えを持っていることがよくわかります。この男の考えを組織が受け入れているのはものみの塔がエホバの証人としてもはや名乗ることができないことを意味しています。赤字は記事の中の注目すべき表現で、青字は私の注解です。レットはエホバの証人基準から見て背教者なのです。

 

贖い ― キリスト教世界の失われた教理(塔91・2・15号pp4-7)

事実をご自分で調べてみるならば,使徒たちの時代の直後に背教者の教えがキリスト教に入り込んだことが分かります。…後代の神学者たちは,贖いの教理を深く研究しているうちに幾つかの難問にぶつかります。贖いはだれに対して支払われたのか,なぜそのような支払いが必要だったのか,といった難問です。

西暦4世紀にニュッサのグレゴリオスをはじめとする人々は,贖いが何と悪魔サタンに支払われたという説を唱えました。サタンは人間を拘束しているため,人類を解放するために贖いがサタンに支払われたというのがその論議です。ところが,同じ時代に生きたナジアンゾスのグレゴリオスは,この説に大きな欠陥があることを見抜きました。つまり,それでは神が悪魔から恩を受けたことになってしまうのです。実にばかげた考えです。それでも,贖いが悪魔に支払われたという考えは何世紀もの間もてはやされ,生き続けていました。

 

贖いが神に対して支払われたとしたら、まだ罪を犯さない生まれたての赤ちゃんは、神のものです。しかしレットは「神の敵」と表現しました。これは罪を犯さない赤ちゃんがサタンのものだという認識から生じた解釈なのです。

 

贖いが神ご自身に支払われたということはあり得るでしょうか。ナジアンゾスのグレゴリオスは,この考えにも問題があると感じました。『わたしたちは[神]に束縛されているわけではない』のに,なぜ贖いが神に支払われる必要があるのでしょうか。さらに,『父が[贖いを要求するようなことをして]み子の死を喜ぶことがあり得るでしょうか』。これらは,贖いそのものに疑問を投げかけるかのような難問に思えます。

 

贖いの死

この問題を調べてゆくと,次に12世紀初頭に行き着くかもしれません。カンタベリー大司教のアンセルムスは,自著「クール・デウス・ホモ」(なぜ神は人間となられたか)の中でこれらの疑問に答えを出そうと試みました。その本の教えによると,キリストの死は贖いではなく,神の公正を満たす役割を果たしました。アンセルムスは,公正を満たすことなく贖いによって罪を許すなら,罪を正さずに放置することになると考えました。「しかし,神が王国において物事を正さずに放置することなどはあり得ず,そのようなことは神にふさわしくない」と,アンセルムスは言います。では,神はどのように事を正されたのでしょうか。

『罪は神に対する侮辱である』と論じたアンセルムスは,アダムの罪によって「取り去られたものを単に回復するだけでは」不十分だったであろうと言いました。神が侮辱をお受けになったのだから,贖いでは ― 完全な人間の犠牲でさえも ― 不十分だというわけです。「加えられた侮辱を考えれば,取り去られた以上のものが返還されなければならない」と,アンセルムスは論じます。(下線は本誌。)そのためには,「神なる人」の死が必要だったと説きました。

 

レットはこの考えに近いですね。要はキリストの犠牲ですらも全人類をあがなうには足らない、それゆえに人は生まれながらにして「神の敵」だとなるのです。これは敬虔な様子を装いながら神を偉大過ぎるものとして印象付け、その愛と公正をゆがめているのです。レットのゆがんだ表情がそれを物語っているのです。

 

読者がアンセルムスの教えについてどうお感じになるにせよ,その教えは当時の人々の心をとらえ,今日に至るまで影響を及ぼし続けています。こうしてアンセルムスは二つの事柄を一挙に成し遂げました。つまり少なくともキリスト教世界においては,三位一体の教理を強化すると共に,贖いに死の一撃を加えたのです。“償罪”という表現が神学者たちの決まり文句になり,“贖い”という語は徐々に忘れ去られてゆきました。とはいえアンセルムスの説は大方,聖書ではなくもっともらしい論理に基づいています。

 

レットの言葉はもっともらしく聞こえますか。彼はそう思って話をしています。

 

時たつうちに,トマス・アクィナスをはじめとする学者たちは,独自の巧妙な論理を用いてアンセルムスの“償罪”説を徐々に崩してゆくようになりました。推測が飛び交い,請け戻しに関する諸説が入り乱れるにつれ,論議は聖書からかけ離れ,人間的な論法,哲学,神秘主義へと堕してゆきました。

宗教指導者が失敗した理由

こうした取り返しのつかない失敗の根本原因は何でしょうか。カトリックの神学者,ボニフェイス・A・ウィレムスに言わせれば,その原因は,神学者たちが人々の現実の必要から遠く離れた,「厳重に隔離された状態で教育を受けている」事実にあります。読者もこの意見に同意されるのではないでしょうか。しかしエレミヤ8章9節はさらに踏み込み,問題の真因をこう指摘しています。「見よ,彼らはエホバの言葉を退けたのだ。それでどんな知恵が彼らにあるというのか」。

 

統治体及びそれを崇拝するものみの塔日本支部がエホバの言葉を退けた結果、知恵のない行動をとり続けています。背教者だからそうなるのです。日本支部広報はそういうものであることを自ら明らかにしました。

 

確かに贖いの教理は,幾つかの難問を生みだすかもしれません。…しかし神学者たちは聖書に答えを見いだそうとするよりも,人間的な知恵や論理を使ってきました。…厚かましくも自分たちの空論 ― あるいは学説 ― と調和しない聖書の言葉をみな退けてきたのです。

 

1世紀に存在しなかった統治体を作り上げ厚かましくも自分たちが思慮深い奴隷級だと言ってはばからないのが統治体成員です。

 

彼らは三位一体の教理など,非聖書的な教えを広めてきました。

 

重なる二つの世代はこれの典型的な例です。

 

…そして神学者たちの最大の失敗は,人間の救いを至上の事柄とし,神のみ名と王国に関するもっと重要な論争を無視してきたことにあります。

 

今統治体はワクチン接種をすることが至上の事柄のように信者を促していますし、自分たちの働きを大々的にアピールすることで自分たちが救いをもたらすものであると信者に思い込ませています。