事故や事件で人が亡くなるときに、ご遺族の悲しみは相当なものであることはいうまでもないのです。
それが幼い子であっても、どれだけ成長したとしても我が子であったり、父や母であったりすることもあります。
朝は普通に「行ってきます」と言い残した子供や親兄弟、夫や妻が、まさかもう二度とこの家に戻って声を聴くことも姿を見ることもできない悲しさは想像を絶します。
戦争もそうですね。グーグルマップでウクライナの街並みを見ると去年の初めは平和に暮らしていた街が今では破壊しつくされています。
そのやりきれない悲しみは同時に犯罪者や国家元首に対して憤りを覚えさせます。
日本ではウクライナ戦争でのロシアの残虐性ばかり取り上げますが、ロシアはアサド政権と手を結びイラク内戦で悲惨な殺戮を既に行っています。日本人の多くは無関心ですけどね。
そういう悲しみをもたらす犯罪者や独裁者がいなくなってほしいと願いつつも、現実はそれは不可能なのです。ですから悲しみは続くのです。
2世の方で「どうして1世はエホバの証人になったのか」という誠実な疑問を持たれている方がいらっしゃいます。
「全知全能の神が愛ある方であるならば、このような悲しみを終わらせるだろう。もうこのような悲しいニュースは聞きたくない。また犠牲者が復活すれば、ご遺族はどれほど喜びに満たされるだろう。」
そういうことも入信の動機の一つになっているのです。犯罪や戦争の犠牲者のみならず不慮の事故や天災や病気の犠牲者の悲しみが癒されるならばなんと素晴らしいことだろう。ドラマや映画で涙をこらえきれないほどの良作があるけれど、それらが実話に基づくものであるならば余計にそう思います。それが目の前で実現すればどれほど素晴らしい光景が繰り広げられるだろう。
「信仰の強制」と言って親を非難する人もいますが、親はそういう光景を子供とともに楽しみたいと思ったのです。それは素晴らしい景色を見るために子供を旅行に連れていく心境と似ているかもしれませんね。子供にそういう景色を見るために計画を練る親を「旅行の強制」という子供はいませんよね。たいていは感謝し、いい思い出として心に残ります。親は子供に感謝してもらえると嬉しいでしょ?
そういう要素も考えてくださいな。
まあ、旅行に連れて行かされても途中で小突き回され、目的地になかなかつかないので親を信じられなくなる気持ちもまた理解できます。でも親のそういう気持ちも理解しないと歩み寄れないでしょう。