マタイ7:21-23を曲解する統治体の決定的な悪知恵を明確に指摘します。(長文です) | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

マタイ7:21-23をキリスト教世界に当てはめて、信者を惑わす統治体の悪辣な責任逃れと悪知恵の用い方を明確に指摘します。

 

2007年発行の「来て、私の追随者になりなさい」のPP186-188の部分です。

 

10 わたしたちの主人は元来,み父と同じく幸福な方です。(テモテ第一1:11)人間であった時も,イエスは批判的でも気難しくもありませんでした。とはいえ今日,イエスが義にかなった怒りを抱かざるを得ない事柄が地上で数多く生じています。イエスを代表していると偽って主張する宗教組織すべてに対して,イエスは確かに怒りを感じておられます。自らこう予告しておられるとおりです。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちは……あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」。―マタイ7:21-23

 

11 今日,クリスチャンと称する多くの人はこの言葉に困惑するかもしれません。イエスの名において「強力な業を数多く」行なってきた人々にイエスがこのような強烈な言葉を述べるのはなぜでしょうか。キリスト教世界の諸教会は,慈善活動を後援し,貧しい人を援助し,病院や学校を建てるなど,数多くの業を行なっています。そのキリスト教世界がなぜイエスの怒りを買っているのかを理解するために,一つの例えを考えましょう。

 

12 父親と母親がしばらく出かける必要が生じます。子どもたちを連れて行けないので,ベビーシッターを雇い,簡潔な指示を与えます。「子どもの面倒を見てください。食事をさせ,清潔にさせ,よく見守っていてください」。ところが,帰って来た両親はがく然とします。子どもたちはお腹をすかしています。汚らしくて元気がなく,見るも哀れです。泣き叫んでいるのに,何もしてもらっていません。なぜでしょうか。ベビーシッターは,はしごに上って窓を洗っているのです。両親が怒って問いただすと,こう答えます。「わたしがどれだけのことをしたか,ご覧になってください。窓はこんなにきれいになっています。家もあちこち修理しました。すべて皆さんのためです」。両親の怒りは鎮まるでしょうか。鎮まるはずがありません。そのような仕事は頼んでいないからです。子どもたちの世話をしてもらいたかったのです。ベビーシッターが指示を無視すれば両親は怒るに決まっています。

 

13 キリスト教世界はこのベビーシッターのように行動してきました。イエスがご自分の代表者たちに残した指示は,人々に神の言葉の真理を教え,霊的に清くあるよう助けることにより,人々を霊的に養いなさい,というものでした。(ヨハネ21:15-17)ところが嘆かわしいことに,キリスト教世界はこの命令に従っていません。人々が霊的な飢えに苦しみ,偽りに惑わされ,聖書の基本的な真理を知らないままにしています。(イザヤ65:13。アモス8:11)この世界を良くしようとする努力も故意の不従順の言い訳にはなりません。結局,この世の体制は取り壊し予定の家のようなものです。神の言葉は,サタンの世の体制が間もなく滅ぼされることを明らかにしています。―ヨハネ第一2:15-17。

 

14 一方,イエスは非常に幸福でもあられるに違いありません。人々を弟子とするという任務を地を去る前に追随者たちに与えましたが,その任務を幾百万もの人たちが果たしているのを天からご覧になっているからです。(マタイ28:19,20)メシアなる王の喜びに貢献できるのは本当に大きな特権です。「忠実で思慮深い奴隷」への支援を決してやめるまい,と決意しましょう。(マタイ24:45)油そそがれた兄弟たちから成るこの少人数の一団は,キリスト教世界の僧職者とは違い,従順な態度で伝道活動を指導し,忠実にキリストの羊を養っています。

 

15 今日の地上に広く見られる愛の欠如をご覧になって,王が怒りを覚えておられることは確かです。安息日にいやしを行なったイエスをパリサイ人が批判したことを思い出してください。彼らはあまりに心が冷酷で,自分たちのやり方に固執していたので,口伝律法とモーセの律法に関する自分たちの狭量な解釈を超えるものは理解できませんでした。イエスの数々の奇跡は計り知れない善を成し遂げました。そうした奇跡が喜びや安らぎをもたらし,信仰を強めたことは,パリサイ人にとっては無意味でした。イエスは彼らについてどう感じましたか。「憤りを抱いて彼らを見回したのち,その心の無感覚さを深く憂え」ました。―マルコ3:5。

 

16 今日,イエスは,「深く憂え」させるものをはるかに多く目にしています。キリスト教世界の指導者たちは,聖書と相いれない伝統や教義に凝り固まり,盲目になっています。さらに,神の王国の良いたよりを宣べ伝える業に憤っています。世界の多くの地域で,イエスが宣べ伝えた音信を誠実に宣べ伝えようとするクリスチャンに対する悪意のある迫害を僧職者が扇動してきました。(ヨハネ16;2。啓示18:4,24)同時に,僧職者はしばしば自分の追随者たちに,戦争に行って他の人の命を奪うよう説き勧めます。そうした行為がイエス・キリストを喜ばせると言わんばかりです。

 

17 それとは対照的に,イエスの真の追随者たちは隣人に愛を示そうと努力します。反対に遭っても,イエスに倣って「あらゆる人」に良いたよりを伝えます。(テモテ第一2:4)互いに示す愛は際立っており,追随者であることを明らかにする主要なしるしとなっています。(ヨハネ13;34,35)仲間のクリスチャンに愛と敬意を示し,尊厳を認めて接するとき,まさにイエスのあとに従っており,メシアなる王の心を歓ばせているのです。

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おそらく今日の多くのエホバの証人が統治体を信頼する大きな根拠として、「いったいエホバの証人以外に、世界中で王国の良い便りを宣明している宗教組織はどこにあるのか。」というものがあり、その心理を統治体は利用しています。

 

統治体の巧みな誘導として比喩が使われています。ベビーシッターの喩えです。統治体はキリストが委ねられた宣教の業を子守にたとえ、宣教の業を行っていないキリスト教世界の「善行」は無意味であると論を展開しています。

 

しかしこの論理はマタイ7:22の「不法を働く者たち」の言い訳を正しく伝えていません。不法を働く者たちは次のように言います。『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』。「追随者」の書籍ではこの赤字の部分を省略していますが、特に下線部に注目すれば、この不法を働く者たちの「強力な業」は布教活動と大いに関係していることがわかります。

 

ところが統治体はキリストの言われた「強力な業」を「キリスト教世界の諸教会は,慈善活動を後援し,貧しい人を援助し,病院や学校を建てるなど,数多くの業を行なっています。」と適用しています。こうすることでキリストの言葉の真意をずらしました。

 

また統治体はキリスト教世界が全く宣教活動をしていないかのように論じていますが、このベビーシッターのたとえには問題点がいくつかあります。宗教革命当時のイエズス会の宣教活動は世界中に及んだことには触れていません。日本にもザビエルや宣教師がくることで日本にキリスト教が根付くきっかけにもなりました。彼らの努力がなければ、日本でエホバの証人が爆発的に増加しなかったかもしれないのです。

 

さらにキリスト教世界の慈善事業を全否定していますが、病院や学校を建てることは決して悪いことではありません。それでキリストが怒るとすればキリストは不寛容ということになります。子守をしないで窓を拭いているとしても、温厚な主人なら怒るのではなく、むしろ感謝するべきところもあるかもしれません。例えばこの家が極めて不衛生でしかも隙間風が入り子供の健康にとって悪影響を及ぼすと判断した人が、家を綺麗にして修理をすることも大事だと判断したかもしれないのです。親が子供の健康状態に極めて無頓着であることを知ったベビーシッターが親の子供への愛情に問題があると判断する場合もあるでしょう。

 

そもそも論として、マタイ7:21-23でキリストは慈善事業を咎めたのではなく、不法を働く者たちがキリストの名を使ってキリストの教えに背く行為を咎めたのですから、ここでキリスト教世界の慈善事業について批判するのは、論点をずらしであり、間違った推論をさせることになります。ここが統治体の大いなる悪知恵が働いているところです。

 

そして巧みに統治体崇拝をさせるよう信者に刷り込みます。「忠実で思慮深い奴隷」への支援を決してやめるまい,と決意しましょう。(マタイ24:45)油そそがれた兄弟たちから成るこの少人数の一団は,キリスト教世界の僧職者とは違い,従順な態度で伝道活動を指導し,忠実にキリストの羊を養っています。

 

「決意」は個人に任されるものですが、それを促すことで強制させようとしています。悪辣な悪知恵ですね。

 

15 今日の地上に広く見られる愛の欠如をご覧になって,王が怒りを覚えておられることは確かです。安息日にいやしを行なったイエスをパリサイ人が批判したことを思い出してください。彼らはあまりに心が冷酷で,自分たちのやり方に固執していたので,口伝律法とモーセの律法に関する自分たちの狭量な解釈を超えるものは理解できませんでした。

 

統治体の誘導の仕方は、キリスト教世界や世の中に悪のネガティブな部分に注目させて、自分たちの悪行を覆い隠そうとするところでこれも悪知恵の一つです。

 

16 今日,イエスは,「深く憂え」させるものをはるかに多く目にしています。キリスト教世界の指導者たちは,聖書と相いれない伝統や教義に凝り固まり,盲目になっています。

 

誰かを百万円を盗んだ悪人だと言って、自分たちが10万円を盗んだことを隠そうとするのです。地上に広く見られる愛の欠如と言いますが、鬼の形相をするスティーブンレットや冷酷な虐殺者の表情を浮かべる浮かべるアンソニーモリスや、責任転嫁をしたジェフリージャクソンやゲルト・レッシュや貧しい信者が大半なのに、己の装飾品を見せびらかすサミュエル・ハードはいずれも愛にかけた態度ですし、完全忌避を良しとしたり、相互監視体制を強め、逆らうものを排除する日本支部や末端長老などは、愛に欠如している組織だと言えるでしょう。キリストは他者のことはどうでもいい、自分たちはどうなのか吟味するようにと言っているのです。聖書と相いれない伝統や教義には「1世紀の統治体の存在」神権的戦術、輸血拒否、高等教育拒否、全時間就労の拒否、完全忌避制度などがあります。

 

従って不法を働く者の見極め方はただ単に世界中で宣明しているということではなく、何を教えているかにかかっているのです。伝える内容が問題なのです。世界中で非聖書的なことを伝えているのは「人の住む全地を惑わしている」不法を働く者たちなのです。

 

キリストが統治体や日本支部に対して怒りを抱いていることは明らかです。心臓疾患を抱えた人を「有耶無耶にできない」と言って断絶処分にするような人間が長老なのですから、「あまりに心が冷酷で,自分たちのやり方に固執して」いると言えるでしょう。統治体の見解という「口伝律法と、統治体の律法に関する自分たちの狭量な解釈を超える」ことを彼らは恐れているのです。グアテマラで殉教した2姉妹の犠牲を組織ぐるみで隠そうとする日本支部は「あまりに心が冷酷で、自分たちのやり方に固執している」のです。日本支部に対してキリストは怒りを抱いていることでしょう。乳井健司と彼に全責任を負わせようとする支部幹部はキリストに言い開きをしなければなりません。「イエスは彼らについてどう感じましたか。「憤りを抱いて彼らを見回したのち,その心の無感覚さを深く憂え」ました。」心臓疾患を抱えた人の言動は有耶無耶にできないと思いながら、自分たちに関しては「当局は一切関知しない」とだんまりを決め込んで有耶無耶にします。嘘を吐いていることは明らかです。

 

「僧職者はしばしば自分の追随者たちに,戦争に行って他の人の命を奪うよう説き勧めます。そうした行為がイエス・キリストを喜ばせると言わんばかりです。」と言っていますが、自分たちの悪事を指摘する人たちに対するスティーブン・レットの言葉と鬼の表情は、戦闘意欲を煽り立てるもので、これは戦争参加を促す僧職者と同じ精神態度を信者に植え付けようとしています。

 

この人物と戦争を煽る僧職者が、その精神態度においてどれほどの違いがあるでしょうか。

 

心臓疾患を抱えた人に、断絶処理をした長老は、仮にもしこの処理を降された人がそれでストレスが加わり、命を落とすようなことがあったとしたら、殺人にも匹敵しますが、それでも「霊の戦いだから仕方がない」と思うのです。それを「霊の戦い」だと思うのです。

 

ところでこのベビーシッターの喩えですが、まず「理解するために,一つの例えを考えましょう。」という言葉で始め、「お腹をすかしています。汚らしくて元気がなく,見るも哀れ」という極端で品格のない表現を使っているところから見て、この書籍はレットが書いた本ではなかろうかと推察します。かつての統治体成員であるエドワード・ダンラップの表した「ヤコブの注解」や「人生には確かに目的がある」などの書籍に見られるような品格の高い書籍とは異なり、下品で野卑でしかも統治体バンザイの文体はそう思えるのですけどね。