人の根性を歪めるのは釣り合わない罰を与えるから(小説「ああ無情」より)青字2か所追記 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

前記事で「痛めつけられると根性が歪む」と書きましたが、それは犯した罪に対する罰が重すぎるからでしょう。

 

「レ・ミゼラブル」はお腹を空かせた姉の7人の子供のためにパン1個を盗んだだけで逮捕され、その他の罪も合わせて5年の刑を宣告され、4度の脱獄を試みて、19年の懲役に服したジャン・バルジャンの物語ですが、これは情状酌量もされない、あまりにもひどい罰でした。

 

激しい鞭を打たれたエホバの証人の子供たちは男女の別なく、ただ集会中に居眠りをしたというだけの理由であるいは奉仕をサボったというだけで、椅子に座れないほどの鞭を受けました。

 

特権が削除されたり、排斥になった人の中には本当のところは確かに罪を犯した自覚はあると思うのですが、その罰が今までのエホバの証人人生のすべてを振り出しに戻すほどの罰なのでもはや受け入れられなくなっている場合もあるかと思います。それは犯した罪に見合わない罰なのです。理不尽に思えるのはその罰の大きさによるものなのでしょう。

 

少しでも自分の落ち度を認めるとその罰そのものまで認めざるを得ないので、ぎりぎりに崖っぷちのところで抵抗をしている人もいるかもしれません。これは特権はく奪や、排斥などの処置が根本的に大きすぎる理不尽な処置であるということです。なぜそうかと言えば、男子として敬意を払われない人生を過ごし、学友たちから蔑まれ、持てる能力を世では発揮できず、ただ奉仕のためだけに使うことを強要され、それと引き換えに得た特権だからです。それを奪うのは、命の綱を切られたもののように感じるのかもしれません。

 

犯した罪に対して審理委員会が開かれたとしても、その処断がたとえば3か月程度の割り当てなどの停止などの域にとどめていたならばこうも彼らを苦しめることはなかったのではないかと思えます。もしそういう処断を「処置が甘い」と言っていともたやすく特権を取り去るならば、それこそ「愛と憐み」を施すチャンスを裁く側から奪っていることになります。

 

ジャン・バルジャンは、刑を終え46歳になっていましたが、就職先が見つからずやがてある教会に行きます。そこでは司祭に歓待されますが、その夜司祭の大切にしている銀食器を奪って逃走します。逃亡している際に憲兵に見つかり、尋問を受けるのですが、そこへ司祭が呼びだされます。司祭は「それは私が彼に与えたものだ」とさらに銀の燭台まで与えます。「泥棒に追い銭」という言葉がありますが、人間不信と憎悪の塊であったバルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれます。この後バルジャンは悔い改め、事業に成功し市長にまでなります。

これは、ひとりの徒刑囚が偉大なる聖人として生涯を終えるまでの物語であり、その底を流れているのは、永遠に変わることのない真実の「愛」である。(Wiki)

 

司祭の取った行動は犯した罪を罰するよりも悔い改めるような配慮でした。つまり悔い改めるためには「許す」ことが必要だったのです。それが「人生を神と組織にために費やした」人への憐れみです。それが審理委員会で実行されなかったのです。そもそも審理委員会の目的は「本人が悔い改めること」のはずですが、むしろ本人を頑なにさせたのであるならば、その審理委員会は失敗だったのです。

 

極端な話、幼いころに激しい体罰を与えられ敬意を示されぬ教育を施された2世男子が得た特権は、もはや奪ってはならないのです。これが彼らの行動を世間一般の常識の基準で測ってはならないところです。組織はあの体罰が生み出したそのような心理を理解しないで、いまだに自分たちの意にそぐわぬ2世を完全忌避していることを正当化していますが、これは教育機関として不向きであることを示しているのです。

 

激しい体罰を受けた2世男子は大人になってなお敬意を示されない人生を送っているのです。これは男子を歪めます。彼らを幼いころに鞭うち、その見返りとして教えるべきことを教えずとにかく特権を与えてなだめていたうえで、突き落とすことによって実は特権を与えたこと自体が敬意を示すものでなかったことを示しているのです。これらの男子をまるで感情を持たない道具のように扱ってきたのです。

 

「レミゼラブル」の意味は「悲惨な人々」ですが、小説の邦題は「あゝ無情」です。ものみの塔指導者層は「無情」な人間が構成しています。その象徴的画像がこれです↓。

 

この男に人の情けなど通じません。「情」けなど「無」いからです。この所作で自らそれを証明しました。これを正当化できるキリスト教は存在しないはずです。ものみの塔はキリストの精神を正しく理解していません。

 

彼らに寛大な処置をとっていれば、組織は深い愛情に富んだものとなったことでしょう。審理委員会では“被告”が一時の感情にとらわれて、反抗的態度を取ったとしても審理委員は「もう少し落ち着いて頭を冷やしてから開きましょう。」と言って後日に開くこともできたかもしれません。なにも一回の審理ですべてを決定する必要はありません。

 

一般の裁判でも審理は数回にわかってなされます。一回の審理で抗弁の余地のない審理委員会は、昔見た「アンタッチャブル」というドラマでマフィアの黒幕がギャングのボスを死刑に定めたシーンを思い起こさせます。ものみの塔の審理委員会というものは愛ある取り決めではなく、マフィアに見られる風景と同じです。