目に見えない無抵抗な相手なら批判しても許されるが、自分が批判されると許せないのか | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

私がいろんな人を批判することを問題視している人がいますが、ではご自身はどうなのか。

 

キリストは当時の宗教指導者に対しては厳しく激しく糾弾されましたが、民に対しては優しい目を持っておられた点で明確な区別を設けておられました。ですからたとえ神殿が偽善者たちで牛耳られようとも、値のわずかな硬貨二枚を寄付した女性を高く評価されました。「偽りの宗教に寄付するなんて馬鹿げたことはやめた方がいい。ロボットだ」などとは言われませんでした。

 

キリストはたとえ間違った組織にいても、その中で敬虔な資質を持つ人を目ざとく見つけられました。

 

こういったキリストの見方は、たとえ仏教でも、イスラム教でも、カトリックでもプロテスタントでもその中で敬虔な資質を持つ人は評価されてしかるべきだということに繋がります。

 

1世紀の宗教指導者たちは「自分たちだけが救われる」と思っていたのです。ですから少しでもタルムードに違反するものは滅びに値するものだと裁きました。彼らにとってはタルムードに違反するものはもはや人間で反なかったのです。

 

同じ見方をエホバの証人もしています。エホバの証人以外は人ではないかのような見方をする人がいます。ですから無抵抗で目に見えない世の人はいくらその人たちが敬虔な人であっても蔑みます。

 

それと全く同じ見方を一部のアメブロを利用するEXJWたちはしています。彼らにとってはブログをしている人たちが「生きている人」であり、自分たちが批判している人はブログもしていないゆえに無抵抗で、その人たちの考えは思いを知ることができないのですからもはや「生きている」のではないのです。

 

私は組織批判を冷静にする人に対しては全く何も感じません。グラフや統計で組織の衰退を述べるブロガーなどは興味深く見ています。年鑑では気づかないこともあります。

 

あくまでも無抵抗で目に見えない人を「生きていない」人間である、つまり喜怒哀楽を持たない人であるかのように批判する人を批判しています。実際批判された人の反応は確かに私に対して腹を立てたりしていますのでまさに「生きています」。しかしそういう人は自分たちが蔑視している人が「生きている生身の人間である」ことを認識しているでしょうか。

 

値の小さな二つの硬貨を寄付したやもめも、キリストと親しくしていたマリアやマルタと同様生きていました。キリストがこのやもめと個人的に交流した記録はありません。

 

勿論明らかにおかしなことを言う人をブログで批判するのは間違っていないでしょう。宝石さんのブログに出てくる長老の言葉は人でなしそのものです。キリストもペテロに対して「サタン」といったくらいです。目の前にいる弟子を叱責しました。それはペテロが間違っていたからです。でも誰もキリストを咎めることはないのです。

 

しかし自分に親切にしてくれた人からの手紙をさらしたり、メス(笑)と呼んだり、高齢者を「秋口のカブトムシ」と呼ぶのはとてもじゃないけど非人道的です。まさに文字通り人間扱いしていません。

 

無抵抗で何もできない人たちは散々批判しますが、ブログをしている自分への批判は許さないというのは、まさにエホバの証人が自分たち以外は滅びてよいというのと同じです。ブログをしている人は生きていて、していない人は生きていないかのようです。