私がエホバの証人であった時にその美徳は遵法精神でした。そしてその遵法精神は他者への愛とリスペクトから生じるものだと思っていましたし、実際私のいた会衆ではそういう人たちがほとんどでしたので居心地は良いものでした。
従って遵法精神を諭されたときに「エホバの証人から抜け切れていない」という人が多いのには驚きでした。それは「遵法精神→エホバの証人→うざいもの」という図式が成立するからです。
わたしがエホバの証人になる前はそれほど遵法精神がしっかりしていたわけではありません。しかしエホバの証人になると法を守ることが他者への愛を起点にするという認識でいるならばそれは行う価値があると思ったものです。
そしてやがて「他者への愛があるならば、この場合どうする?」という思考をするようになりました。それが黄金律の適用です。ものみの塔の研究記事では「聖書の中には隣の家の庭に自分の家の庭の落ち葉を捨ててはならないという記述はないが、黄金律から見てそれは自分にしてほしいことかを考えれば答えは出てくる。」というものでした。
この意味で「JW教育」はそれなりの価値があるものと思われます。「テーマ」に関して言いますと、私は「JW教育」というのは組織が示す聖書的なものの考え方、「WT教育」というのは、組織崇拝へ専念させる教育と区別しています。
喫煙の習慣もそうですが、これは自分だけではなく副流煙で周囲の人の健康を損なうということが言われたのでその習慣に魅力を感じませんでした。エホバの証人でなくても家族の前では喫煙をしないという人はいます。家族の健康を損なうからです。それでも周囲に見知らぬ人がいるときには喫煙をするのであるならば身勝手な人だということになります。そこで誰にも迷惑を掛けたくないという動機で禁煙する人もいます。ですからエホバの証人時代に「真剣にエホバの証人をやっていた。」という人が今喫煙の習慣があるのであるならば本当に真剣にしていたのかどうか疑問なのです。喫煙はただエホバの証人であるが故にしなかったというだけの理由であるならば、他者の福祉を顧みる心があったかどうか疑問です。それでも「真剣に」と言えるのだろうか。動機は一体何だったのだろうかということです。
こういった遵法精神が愛やリスペクトに基づくものであると考えていたからこそ、ブログで実名中傷や、盗撮中傷、プライバシーの暴露などを次々と行い、そして現役信者に対する侮蔑の言葉をかけ続ける行為に対して多いなる違和感があるのです。
現役時代は本当に「兄弟・姉妹」として愛していたのだろうか、という思いです。会衆内の兄弟姉妹を本当に愛していたならば、今の現役の人に対して、侮辱するようなことは決してないでしょう。
自分が現役の時に本当に純粋にエホバの証人をしていたならば、その同じ純粋さを今なお現役の人は保っているからです。組織の現役はかつての自分なのです。今の現役を侮辱するのは、自分で自分の過去を貶めているのです。