宗教の教理なんぞ、どこもかしこも矛盾だらけですし、理屈では通じません。カトリックのミサにおいて聖体拝領というものがありますがそこではパンと葡萄酒がキリストの身体に変化するという聖変化というものが生じるそうですが、エホバの証人の場合記念式のパンと葡萄酒はあくまでも「象徴」ということですが、カトリック教徒は実際にそれが生じると信じているのです。それを科学的根拠を示せと言っても無理でしょう。信仰とはそういうものなのです。いちいちこだわっていてはキリがありませんし、こだわったところで信じる人は信じるのです。
各自がそれぞれも信じていることを躍起になって否定しても無意味です。
エホバの証人の場合、その教理や教義が、三位一体否定、十字架の否定、聖書解釈など矛盾していると感じたととしても、それがあくまでも思考的に納得している場合はいくら反論を積み重ねても無駄なところがあります。
ところがここで問題になるのはその教えの中には、個人の生活に影響を及ぼすものがあるということです。高等教育の選択、全時間就業の選択などですが、これらは上記の教理や教義とは分けて考えなければならないものです。
教理や教義などが正しいと思うと、あとは統治体の生活基準への指示までもが正しいと思い込むようになるのです。また「模範的」という言葉に惑わされてしまいます。これで生活がしばられているのです。
たとえば三位一体の教理を信じたままエホバの証人になることはできませんし、またそれを信じるようになるとエホバの証人ではやっていけません。しかし高等教育を受けたからと言って「模範的でない」とは言われるものの、それで排斥になることはありません。ですから三位一体を否定しているならば、別の高等教育に進んでもエホバの証人としてはやっていけるのです。
輸血拒否の態度はおそらく今後は変化していくことでしょう。それは分画を受け入れるようになったからです。いったん崩した教理はそのまま崩れていくというのが世の常です。
既に統治体のなし崩し的な「世」への迎合などを見ていると、かつての生活基準そのものはどんどん緩んでいくでしょう。要するに昔よりも「居心地の良い」宗教になっていくものと思われますし、そうならなければ宗教組織としては存続できなくなります。今はもう体罰すらしなくなっているようです。
少なくとも今の偽善色一色の統治体が存命している限り無理でしょうし、たぶんそれは日本支部でもそうです。「上なる権威」に従うという生徒の言葉の身勝手な解釈は35年間変わっていませんでした。新しい支部委員は2世でしかも東大出身だとか言います。それほどまでの優秀な頭脳ですら組織擁護のためにはその方向でしか働かないのです。思考停止どころか、思考は活発に動いています。
コロナウイルスの世界的流行は「終わりの日」を強調する面でエホバの証人は敏感に反応するでしょう。だからと言って救われるためにエホバの証人であり続けなければならないとか、エホバの証人に戻らなければならないというものではありません。かりにもし神の裁きというものが臨むとするならば、統治体や日本支部こそ真っ先にそのターゲットになるでしょう。それほどまでの聖書違反をしてきました。
統治体は今こそ最大級に「終わりの日」を強調するでしょうが、それは組織にとどまらせるためです。自分たちの言っていることが当たっただろうと強調するでしょう。世上に対する恐怖心はある限りそれを利用するのが宗教というものです。鎌倉仏教が反映したのも当時の世相が不安感を人々に与えていたからです。
不安感を増幅させ、そして救いは我にありと唱えだすのが宗教というものです。もともと人間は年老いたり、命が尽きることに対する漠然とした不安を持っていますし、そのほか心の病を持っているのですが、世相が緊迫すると一気にそれが爆発し救いを求めるようになるのです。
1970年代の世相はそういうものでしたし、まさにその時には聖書預言はドンピシャで当たっているように思えました。だから私を含め多くの人はエホバの証人になったのです。インターネットのない世界でしたから情報弱者であるのは致し方ないことです。
人間が不完全で、様々な不幸がある限り宗教は存続し続けます。エホバの証人も衰退するとはいえ消えてなくなることはないでしょう。