カルト宗教も政治も「人の役に立ちたい。」と言う心理 | 世の中とかなんやかんやに対する感想

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できるだけ俯瞰して世の中のことについて書いてみたいと思いますね。

選挙戦を見ていて感じるのは選挙演説を行う人のエネルギーはどこから来るのだろかということです。純粋に周りの人たちの福祉を気遣う人を見極めるのはなかなか難しいですが、それでも政治の道を踏みだした最初の動機はほとんどの場合「人の役に立ちたい」ではないかと好意的に見ています。

 

カルト宗教もそうです。広瀬健一の入信の動機は「救いたい」という願いからのものでした。カルマからの脱却を一般人もする必要があると考えました。その他元死刑囚たちの多くはオウム入信前は「人の役に立ちたい」という願いを持っていた人たちでした。オウム事件の悲劇はそこにあります。

 

エホバの証人も同じです。「人を救いたい」「人の役に立ちたい。」その動機で奉仕活動をしています。その動機そのものまで侮辱し、その人を全否定するとしたら、その心根はカルト信者よりも問題があるのではないかと思われます。

 

「人の役に立ちたい」と思う気持ちがあるにもかかわらず、なぜ問題が生じるのかと言えばそこに全否定思考が働くからです・

 

大阪知事選・市長選では柳本候補、小西候補両方とも維新の実際成し遂げた改革を全否定しました。これは自民・公明が「維新を終わらせる」という合言葉のもと選挙戦を行った事でもよく表れています。小西候補に至っては全く笑顔など見せることなく終始怒ると不満に満ちた顔をしていました。松井氏、そして橋下氏ですらも小西氏の行政手腕と能力を高く評価していたのとは対照的でした。柳本氏は敗戦後「政治家としての命は絶えた」と言ったように、終わったのは自分の方でした。

 

共産党の小池晃氏は衆院補選を戦うに際し、日本維新の会が自民党の補完勢力であることを強調するために「維新は金魚のふん」という言葉を使いました。小池氏の自民全否定は他の公党に対して言うまじき侮蔑の言葉を使うまでに強烈なものです。このような言葉遣いをする小池氏の思考はカルト宗教のそれに類似しています。世間がそれをどうとらえるかなどがもはや眼中にないのです。小池氏は東北大学医学部出身の医師です。非常に優秀な頭脳の持ち主です。人から尊敬される立場であった方です。もし医師に専念なさっていたならば、どれだけ多くの人から感謝の言葉を受けただろうかと思うと残念でなりません。感謝の言葉を受けるというのは人生を幸福なものにします。政治理念の異なる人たちを常に攻撃ばかりする人生と比較した場合果たしてどちらが優れていたのだろうかと思います。

 

政治の世界では相手を苛烈な言葉で攻撃するがゆえに感情的になるのです、醜い言葉の連射をします。そこには侮辱が常に伴います。以下の記事などもそうです。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190417-00559974-shincho-pol

 

 

エホバの証人もそうです。聖書を知る前には社会的に高い地位にいた人もいます。その人たちの中には職業を捨てた人も数多くいます。宣教によって「人を救いたい」という願いのもとでそうする行為そのものは敬服します。しかしながら集会でハルマゲドンの教理を常に教え込まれることによって「世の滅び」を願うようになるのです。残念なことです。

 

悪い人間が滅びてほしいと思うのは自然な願いです。凶悪犯罪者がいなくなってほしい、戦争がなくなってほしい、病気がなくなってほしい、苦しみや悲しみがなくなってほしいと思うのは普通のことです。しかしながら悪人ではないにもかかわらず、エホバの証人でないというだけの理由で悪人の範疇に入れてその滅びに対して無頓着になるのはやはりどこかが狂っているのです。

 

東日本大震災の直後、各会衆に送られた協会からの手紙の中の「今は終わりの日なのでこのようなことを起こるのは当然ことだから、奉仕に頑張りましょう」旨の言葉はそういう無頓着さを示すもので、私にとっては組織を離れる決定的なものとなりました。

 

「人の役に立ちたい」願いを高貴なものにするには全否定思考を捨てなければならないのです。これはSNSなどでエホバの証人の偽善を暴くという立場で情報を発信する人に対しても教訓となるのです。エホバの証人全否定をした上で情報発信するならば、小池氏のような文言を使うこともいとわないのです。野外宣教している姿を後ろから盗撮し、ブログにあげておちょくりそれを正当化するようなのは下の下です。

 

「義に過ぎる」ことを聖書は戒めていますが、この「義に過ぎる」というのは全否定思考に他ならないのです。宗教にしても政治にしてもそれは当てはまります。