冬季五輪の与える清涼感3―雪と氷の白い世界からの贈り物 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

 

今回の五輪で、今までになかった感慨を得たのは、競技種目はいうまでもないがすべて雪と氷がなければ成立しないことが意味することだ。屋内施設でも氷がなければ競技ができない。


しかし雪と氷の世界は、真っ白な世界である。ほとんどモノクロの世界になる。それは寒さに耐え、豪雪に耐え、ひたすら春が芽吹くのを待っている世界である。そのような世界でも人々は楽しみを見出そうとする。アルプスの少女ハイジで、冬になったアルムでそりに乗ったハイジとペーターが山を楽しげに下るシーンがあるが、スキーにしてもスケートにしても、「滑る」ことに伴なうスピード感を楽しみたいから起源はオンボロ靴でも徐々に改良を加えたものだ。ジャンプもノルウェー・テレマーク地方で発達したそうだが、それも人々が遊んでいて生まれた競技だという(処刑方法だという説はどうやら間違っているらしい)


厳しい日々を送る人たちが、幸福でいるために楽しみたいと思う人たちが工夫を重ねて生まれたスポーツだ。そこに何か切なさを感じるのである。人間の持つたくましさ、頼もしさも感じるのである。鋼(はがね)の強さも感じる。


雪で閉ざされた世界の人たちはだからこそ近隣の人たちとの結びつきを大事にする。常に隣人を気遣い安否を尋ねる。だから周囲は寒くても心は温かい。たぶんそれは日本に限らないのだろう。


その慎ましい日々と生活を愛する思いが、カーリング女子選手が表彰式後のインタビューの最後に「北見に帰りたい!」とカメラに向かって笑って叫ばせたのだろう。


カーリングは確かに対戦競技であるが、「カーリング精神」というものがある。この競技は審判がいない。競技者たちのフェアプレー精神に基づく。相手チームの失策を喜んだり、そういう態度すら慎まなくてはいけない。負けを認めたらその場で潔く認める「コンシード」を握手を求めることで表す。これなどは将棋の投了したときに「負けました」と頭を下げることと似ている。


間もなく消えるだろうがJALの次のCMはオリンピック関連のCMでは私的にはピカ一のものだ。 

https://www.youtube.com/watch?v=p22vJcJk0EI

 

特に10~11秒で、たぶん放課後の教室で女子高生が笑いながらモップでスウィープの練習をしている場面が好きだ。


北見市といっても常呂(ところ)は、サロマ湖近くにありオホーツク海に面している。ここは夏にも冬にも行ったことがあるが、冬の景色は市街地の建物を除けば一面雪に覆われている。サロマ湖には氷が張り、その上をスノーモービルで走ることもできる。夏に行ったときには栄浦で宿泊したが、オホーツクに沈む夕日が、涙が出るほど美しかった記憶がある。


そんな小さな町の少女たちが日本中を感動させているが、大舞台でも物おじしない素朴さが微笑ましい。


人間にとって試練とも思える雪と氷の国で生まれたスポーツが、危険があるだけに、驚嘆と感動を与える。冬季五輪の選手たちのパフォーマンスはそういう人たちからの贈り物だと思う。


そしてそれは白い世界で育まれ、今日の一日を生きておられる方々に深い敬意を持つことを教えてくれる。