冬季五輪の与える清涼感1―勇敢なアスリートたちの強い絆 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

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「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

あっという間の2週間だったが、今回のオリンピックは今までになかった不思議な清涼感に包まれている。


一つ目はアスリートたちが国を超えて互いをリスペクトしている様子だ。すでに触れた人たち以外に女子カーリングの藤沢選手なども話題になっているようだが、もっともっと数多くのアスリートたちが互いをリスペクトしている。スノボー女子パラレル大回転で竹内智香選手は、準々決勝前に「ここまで来たら、メダルを狙うが、互いにリスペクトしながら競い合いたい。」というようなことを言っていた。日本人だけではない。トライし終えた選手たちが国が違えど抱擁するシーンが多い。


スノボーハーフパイプやクロスにしても、フィギュア&スピードスケートにしても、ジャンプにしても、スキーフリースタイルにしても、モーグルにしても、回転、大回転、滑降などアルペン競技にしても、とにかくスピードが出たり、空中を舞い、飛翔することを競い、滑りやすくて固い氷やアイスバーン化している雪の上であるがゆえに、ほとんどの人は大けがをしている。スケート靴のブレードすら凶器になることもある。渡部暁斗選手は肋軟骨を骨折しながらジャンプとクロスカントリーを団体含めて3回も試合に臨んだそうだ。けがはいつも隣り合わせの危険な種目がやけに目立つ。採点競技は高得点を取るためには回転数を上げたり、高く跳んだりしなければならないので危険度は増すばかりだ。トライアル競技にしてもリュージュ、スケルトンは最高時速120~140キロの戦いだ。スノーボードは時速100㎞近く、スキー滑降は130~140㎞、スピードスケート500Mで時速60㎞とか。


長野にある白馬ジャンプ台に行き、上から眺めたことがあるが、この坂を滑ってしかも飛翔するなど勇気がなければ絶対できないと思った。こんなことを中学生の時から日常的に飛んでいる女子ジャンパーは本当に勇気がある。かなわない。


スキークロスで選手のヘルメットに小型カメラをつけている映像もあったが、テレビで見たら十分幅に余裕のあるように見えるコースでも、滑降している立場から見れば実に視野が狭く感じ、コースの端も見にくく真っ白の視界の中、次の起伏などすぐに来る。


女性でも男性と変わりない危険がある。選手紹介の時に過去にどんなけがをしたかに触れる実況もある。怪我だけではなく、最悪の事態も引き起こしかねないスポーツに携わるアスリートたちが、かつてはなかったワールドカップという国際舞台で世界中を転戦し、年中顔を合わせている。そのスポーツに携わっているものにしかわからない恐怖を克服し、自分のベストパフォーマンスを行い続けるライバルを見て連帯感を持たない方がおかしい。


普段は自分たちには見向きもしないくせに4年に一度のオリンピックの時だけ「国」を代表してマスコミが押し寄せ、メダルをとれるかどうかしか関心のない自国の人よりも、そういうライバルたちとの絆の方がはるかに強いものがあるかもしれない。


そう考えていくと、今から8年前にメダルを期待された某スノボー選手の舌禍事件も今なら理解できる。スノボーは歴史も浅く、マスコミにも精通している人はまだ少なかった。「スノボー文化」はまだ新しい。その文化は海外勢のラフなスタイルが普通であり、その感覚と美意識で服を着たら大いにバッシングされた。記者会見の「反省してマ~ス」というのは、普段の自分たちを何も知らない癖に、オリンピックの時だけ「メダルメダル」と唾を飛ばして、まとわりつくそれまでのマスコミに対する気持ちが反映されたのだろう。で、ちょっと服装がラフだっただけで、今度は手のひら返しに非難してくる無節操なマスコミに「ちっ、うっせ~な」も、痛快に聞こえる。まあ、当時は私も「不謹慎な奴」だと思ったが、スノボー「文化」を理解していなかったのだ。単なるファッションだけではない、国際交流による絆の強い文化であるということをだ。何事につけ「後発」というのは強い結束力を持つ。


彼は日本という国を軽んじているのではなく、日本のマスコミに対するうんざり感が出ただけだ。それほど外国人との交流の中で、勇気ある仲間との絆があったのではないかと思う。その仲間を大事にする思いが、平野選手の師にもなったりし、日本のスノボー界で重要な位置を占める位にまで押し上げた。無知なマスコミよりも、その人のことを身近に知っている人の評判こそが信頼できる。


それにつけても、最高の演技を見せた宮原選手に開口一番「残念でしたね。」という語彙しか思い浮かばないど素人のインタビュアにも、しっかり言葉を選んで応対する宮原選手は立派な態度だったと思う。小平選手に「けもの」発言をした人と言い、インタビュアにはもう少しまともな感覚を持った人間を選ぶべきだろう。


ただ単に厳しい訓練に耐えてきたということもあるだろうが、危険の淵を歩く同じ競技の選手たちは、たとえ国が違っても「戦友」である。そういう仲間をリスペクトするというのは、自分と同じ勇気を持つ「人間」を素直に評価しているということだろう。


これはあるいは体操の選手にも当てはまるかもしれない。リオで個人総合優勝を遂げた内村選手に記者会見で嫌味な質問した人に対し銀メダリストのベルニャエフ選手が、色をなして「無駄な質問だ」と一蹴したのも同じような感覚ではないかと思う。体操も難度がますます上昇していく採点競技でケガを伴う。


母国の人からの期待にこたえたい気持ちはあるだろうし、母国民の手前ライバルと親しげな様子を示すと批判されるかもしれないという恐れはあるかもしれない。しかし小平&李の様子を見ればそんなことはもう消し飛んでしまう。この両者もやはり怪我に苦しんだアスリートたちだ。


国境がぼやければぼやけるほど、危険な競技の仲間に対するリスペクトに基づく絆には、外野の素人国民には入っていけない「領域」がある。それが人と人の温かい風景を作り出しているのが心地よい。