高等教育を勧めなかった理由の変遷 | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

振り返ってみると、今と昔のJWの認識の違いを示す一つの例が「高等教育否定の理由の変化」である。


私が高校生の頃に大学進学を否定する理由は主に次のようなものだった。

「大学へ4年間も行って救いの音信をないがしろにするだなんてそれでもエホバの証人か。今は刈り入れの時期で畑は色づいている。一時間でも野外に出て多くの人に聖書の良いたよりを伝えるべきではないか。そして一人でもハルマゲドンから救われるようにして献身の務めを果たすべきではないか。」というものだった。


実際信じられないだろうが大学へ進学して4年後には世の中が存続することはないだろうというのが大方の同年齢の認識だったし、周囲の大人もそういう見方だった。


要するに大学進学を断念させる動機は区域の人を救うことだった。それゆえ自ら進んで大学進学をしなかった人も多い。当時はそんな調子だから専門学校へ進むことすら眉をひそめるものだった。想像してみるがいい。大きな力仕事をしているときに一人でも手を貸してくれる人がいるならみんな大歓迎するだろう。JWは目の前にある「宣べ伝える業」という大きな業を行うために一人でも多くの同労者の誕生を願っていたのだ。


親にしても子供が小学校低学年なら中学生になることなど念頭に置いていなかった。それだけハルマゲドンが目前であるという認識だった。


したがって高等教育の否定は純粋に他の人を救うという動機が基本だった。


それがやがて、高等教育を受けることによって高収入を目指しているのであるならば、人並みの生活を欲する物質主義につながるので危険だとか、高等教育に伴う進化論や高等批評などで信仰の破船を経験するとか言い出して、高等教育を受けることがまるで「罪を犯している」かのような印象を信者に抱かすようになった。


今では「高等教育を受けると組織内での特権と出世に影響する」と言ったなんとも卑俗な動機で制限するようになった。組織としては金太郎あめ製造のために、信者は馬鹿でないと困るという奥に秘めた策略が今では明確である。


如何に外向きから内向きになっているかがよくわかるだろうし、それによって培われる精神態度が偏狭になることも理解できるだろう。それが醸し出す雰囲気の差というものは桁違いに大きいのである。「今と昔は確かに違う」のである。


今のJWにそういう「大きな業」を行う同志のような連帯感などあるだろうか。すきを見ては仲間の失敗を取り上げ、人を蹴落として自分がのし上がろうとしている風ではないだろうか。


表面的に見ると「高等教育否定」は変わらぬ指針であるが、それを受ける側の認識が異なる。