組織崇拝がもたらす争い | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

私のスタンスが「敵は組織崇拝」ということを明確にしたのでその視点で記事を読んでいただくと言いたいことを理解していただけると思う。


宗教などというのは本来他人の安寧幸福を願うものであることが本筋なのに、どうして醜い争いが生じるのか、というのは多くの無宗教の人が、宗教に対する偏見を持つ理由となっている。


結局のところ、そこにあるのは「組織崇拝」が関係しているのではないかと思う。カトリックがプロテスタントを、プロテスタントがカトリックを、JWが既存キリスト教を、そして既存キリスト教がJWを排除し、敵対心から憎しみを嵩じさせるのも、とどのつまりそれぞれが属している宗教組織に対する組織崇拝のせいではないか、と思う。


自分では何が救いかわからないし、信仰を保つのがおぼつかないので、導いてくれるものを探し、同じ信仰を持つ仲間を欲する。それが組織を探し求めるようになる。


最初は少しでも自分に合う組織に傾倒する。自分に合うと思ったら、次にするのは例外なく100%自分を組織に合わせていく。組織にマイコンされる最初の段階である。



やがて他の宗教を見下していく。宗教組織が多種多様であるというのは、他の宗教と区別しなければならなくなってくる。その区別をするためには、その独自性を色濃く出さねばならない。当然の流れとして、宗教独自の教理・教義を持つことが必然的になっていく。この独自性が他の宗教を劣ったものとみなすようになっていく。


劣ったものとみなすだけではない。劣ったものはカスだと思っているから、相手の福祉など顧みず、強い憎しみだけが育つ。神に是認されていない、悪魔だ、サタンだという見方を持つようになる。いったんそういう見方を持つと自分の組織の教理・教義に従わないものは滅びてしまえと思うようになる。


たぶん「最初は純粋だった」と言われた人たちが、自爆テロをするのも、タントラバジラヤーナの教理で地下鉄にサリンをまいてポアをすることが相手を浄化するというのも、そして憎い相手はハルマゲドンで滅ぼしてしまえ、というのもみな同じなんだろう。


十字軍も、異端審問も、宗教戦争も皆そうなんだろう。


宗教組織だけではなく、政治組織もそうだ。「国民の幸福を願う」という建前で実際、青雲の高い志を抱いていても、党利党略の渦に巻きこまれ、権力に振り回される。「党」という組織に属している限り、他の「党」を見下し失点狙い、言葉狩りに執心する。


組織の一員として組織的行動をする際に生まれる争いは、娯楽の分野でも見られる。特定スポーツ球団のファンやサポーターなどもそうだ。応援するチームのために職を変えたり、住む地域を変えたり、そのほか人生の重大な局面の道しるべにする人も多いが、それ自体は悪くないが、時に相手チームのファンに暴力行為をすることもある。自チーム全肯定、他チーム全否定だからよその球団の価値や実力を正しく測ることはできない。


「衆に頼ってことをなそうとする」扇動家もまたそうだ。こういったことをする人たちは得てして暴力的になる。暴力的言動を繰り返すのが特徴である。その暴力的行為は脅迫的言動によっても現れる。そういった暴言で大衆の感情をあおる自分にいささかの陶酔感があるのだろう。「安保法制反対」を唱える際に「次の選挙で安保法案賛成政治家を落とそう」などというのは完全に脅迫だった。特定の政治理念もなければ、画期的代替エネルギー策を提示せず、また国際交渉もできない彼らは扇動家でしかなかった。議事堂の外でいくらシュプレヒコールを上げようが、太鼓を打ち鳴らそうが、議会制民主主義の議会で決まったことを覆すことなどできるわけがない。彼我の実力を正しく判断できていない証拠だ。とはいっても民の声を伝えることには貢献しているし、60年安保闘争、70年安保闘争のように死者が出なかったことは民主主義が高度化していると思う。


倒せない相手を倒そうとする行為が、「ゲリラ的行為」でありテロである。単独では効果がないことを知ると必ず組織的に行動しようとする。それも組織崇拝からきている。その組織とは何も秩序だっている必要はない。組織における秩序とはあくまでも組織そのものが高度なものであるかどうかの尺度である。国家というのは最も高度な組織だ。しかしたとえバラバラであったとしても意を同じくする者、目的を同じくする者が集合するとそこに組織的統制や忠節は求められる。



そして不完全な組織を完全もしくは限りなく完全に近いと思った時に敵対勢力に対する憎悪を伴う争いが生じる。


くれぐれも誤解なきようにしていただきたいのだが、組織は社会生活において絶対必要だ。組織があればこそ大きな事業は円滑に動く。無秩序を嫌う私は組織を肯定する。しかしその中で必ずいるのがいわゆる「過激分子」というものである。時にはライトスタンドでみんなで一緒の野球チームを応援するのは楽しいだろう。(私はそれを三塁内野スタンドでビールを飲みながら見ているのだが)。ただどんな組織でも、組織のリーダー格はこの過激分子の登場を防ぐ義務と責任を負っているはずだ。組織崇拝はこの過激分子を生み出すということだ。


宗教が悪いわけではない。宗教組織が悪いわけでもない。悪いのは組織にはまって組織崇拝をするということである。組織にいても組織崇拝をしなければそれなりの益を受けられることもあるだろう。これはWTに限ったことではないが、WTが「自分たちだけが神の唯一の経路」と言っているのでこの組織崇拝を作り出す危険性は高い。


組織崇拝と暴力的資質はかなり深い密接な関係があると結論する。