時代背景を抜きにはできない | エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

エホバの廃証人:ユダヤ教の異端・ものみの塔鬼畜統治体&嘘つき腐臭幹部日本支部関連+諸事イッチョカミ

「無価値な目撃証人」とは箴言19:28(新世界訳)で「どうしようもない証人」と訳されているWorthless Witnessの字義訳です。
ものみの塔日本支部広報の体罰に関する回答は彼らがそういうものであることを自ら示しました。
主にものみの塔関連ですが、そのほかいろいろ。

ずいぶん長きにわたって20世紀終盤の世相を振り返ってきました。


さてそろそろ本題に入ります。


なぜ親は入信したのか?組織に居続けるのか、ですね。


20世紀終盤における世相は、その頽廃的風潮と相まってなんとなく不安に日々明け暮れて過ごす人が多かったのです。もちろん今の時代でも不安な思いで過ごす人もいるでしょう。日本では原発を中心とするエネルギー問題、火山地震活動の活発化、さらに頽廃している性道徳、近隣諸国の不穏な動き、これは世界的にも不安材料になっています。さらにテロリストの動きも不安を掻き立てています。


そういった中でも「幸福に暮らしたい。自分と他人の幸福を願っている人たちともに過ごしたい。平和で安全な社会で暮らしたい。自分だけでなく子供たちも安全な暮らしができるような世の中であってほしい。」と願う人は今も昔も変わりません。



第二次世界大戦後の日本は左翼的考えが浸透し、左翼的影響を受けていることはずいぶん前に書きました。これは当時の政権に対する不満から生じたものです。金権政治にうんざりし、一部の者だけがいい思いをする政治に対する不満はそこかしこに渦巻いていました。もちろんそのすべての人がテロリストになるわけではないのですが、政治が良くなれば生活も良くなるという期待は今よりもっと大きかったと思います。それだけ政治に対する関心は強かったのです。しかしそういった期待がことごとく裏切られてきたのです。


過去において共産党員だったという人も時折見受けられました。また若い時には学生運動のデモに自分も参加したという人もいました。おそらく団塊の世代の親はたいていそうです。時の政府に対するそういった不満は、WT組織の教えである「ハルマゲドンの戦いによって世のすべての王国を滅ぼす。」ことによって満たされるということでその教えに惹かれた人は多かろうと思います。


極左テロは左翼活動の一時代の終焉を示すものでした。いくら世の中が変わってほしいと思ってもそれが暴力による革命であるならば決して人は幸福になれないという認識を人々は持ちました。左翼主義の行き詰まりもはや自分達の力ではどうしようもないというある種の虚無感を与えるものとなりました。


そのような失望を持ちながらもなおかつ公正さを願う人は多かったのです。


JWでなければそれでもおそらく社会を変えたいと思う人は何らかの政治活動をするかもしれません。しかし往々にして政治は権力闘争がつきものですし、政策一つで利権が大いに動きますから腐敗も付きまといます。なかなか清廉潔白な気持ちは持続しにくいでしょう。


そこで人々は政治には関心を失いがちになりいわゆる小市民的な身近な幸福を願うようになります。


そのような絶望感の中、WT組織の言う、すべての政府を滅ぼし地に平和をもたらすというのは非常に魅力的に思えたかと思います。はっきり言ってハルマゲドンというのは見方によれば「暴力革命」です。その意味だけに限って言えば、極左思想そのものです。でもなぜ平和を求める人がそのような「暴力革命」を待ち望むのでしょうか。それは全知全能である、全き公正さを規準にする創造者が判断することだから間違いはないという思考が働きます。


つまり誰を滅ぼすか誰を生き残らせるかを決定する権威を持たれるのは創造者であるのが実は安心感につながるのです。滅ぼされる人は滅ぼされるだけのことをしてきたからだと考えています。その選択は不完全な人間が行なうのではありません。その知恵は山よりも高く海よりも深いものであり、すべての人間の創造の源である神は、その生死を決定する権限をお持ちであるがゆえに、すべての人をご存じなので冤罪は存在せず、その判断は信頼できるという信仰を持っています。


つまり極左テロでは罪のない人の命も奪われますが、神の裁きで滅ぼされる人たちはすべて罪を犯しているので仕方がなくその裁きの決定に全幅の信頼を置いているのです。


だからこそできるだけ多くの人の命を救いたいと思うので奉仕をしているのです。批判者はよく「JWだけ救われると考えているのは身勝手だ。」と言いますが、それは幾分的を外れています。JWの中にも「自分はハルマゲドンで助からないかも知れない。」と思っている人はいます。でも自分が音信を伝える人は助かるかもしれないと思っています。そういう動機までも疑い、軽侮するのでは彼らを説得するのは難しいと思います。


いずれにしろ、神がそういう裁きを下すためにはそのことを行なうだけの力と知恵を持つ創造者の存在を認めなければなりません。これが最大に重要なことです。その意味で創造者の存在に焦点を当てた出版物を常に出していたWT組織は「自分達こそ真の宗教」と唱えるだけのことはしていたと思います。


はっきり言ってこの点で既存キリスト教は怠慢だと思いますね。既存キリスト教は確かにキリストの教えを解説しています。しかし実際各家に訪問し、創造者の存在を伝道するキリスト教はあるのでしょうか。私は今ネットでもいろいろなキリスト教派の説教を見ましたが、生物界に見られる創造の驚異を詳しく説明し、「私たちがくすしく造られている(詩篇139:14)」という説得をしている教派は皆無に近いです。


ちなみに「くすしく造られている」の検索するとトップに出てくるのは「ものみの塔オンラインライブラリー」です。個々の既存キリスト教徒が創造の業について賞賛する場合もあっても組織として常に生命の精巧な造りを記事にしているのはやはりWTでしょう。


既存キリスト教派がWTに対抗するためには創造者に対する敬意とまた創造の驚異についてやはり常に触れていなければいけないと思います。


私の話したプロテスタントの牧師は「創世記の最初の記述は神話みたいなもの」とまで言い切りました。


創造者について家から家へ伝えたのは既存キリスト教ではありませんでした。進化論が確定真理だという認識が浸透していた日本において、聖書の価値を知らしめるための最初の第一歩はまずそこからだろうと思います。少し前にアメリカで創造者の存在を信じているのは国民の3割に及ぶということを日本のマスコミが驚いた様子で報道していました。「え?あの科学立国であるアメリカでもそうなのか?」という思いですね。しかしWikiによるとインドネシアでは無神論は違法で、公言すると逮捕されることもあると書いてあります。つまり国によって宗教的価値観が異なるのです。


創造者に対する認識という面で免疫力がない日本人が創造者の存在を認めた時点で、それを伝えるWT組織が真理を伝えていると確信するに至ったのです。おそらくもともと創造者の存在に対してなんとなく信じているたとえばアメリカとは異なる反応を日本のJWはしたと思います。ブレ幅が大きかったのです。物事の見方が、180度変わる、いわゆるコペルニクス的転回をしたのですからね。


それまで当たり前のように受け止めていた自然の恵みを創造者に感謝するようになったのです。それは幼い頃にはぐれた生みの親に出会ったかの感動でもありました。WT組織の「父を尋ね求めて」の小冊子はその心理をよく表しています。


無神論を公言してはばからず、むしろ無神論こそ科学的で知的でインテリジェントだと思っている日本でもしキリスト教を布教するのなら創造者に対する信仰を培うようにしなければなりません。私はこの点においては既存キリスト教は今なおその怠慢を反省していないと思います。


なにしろ私たちにとっては自分の命は何より大事なものであるのならば、その命がどうやって生じたのか、進化論であるならだれにも感謝することはないでしょうが、創造者を認めるなら創造者に対する感謝を深めることになるからです。もっとも大事なものが実は贈り物であるならば、そこに愛と感謝という感情が生まれます。


ここで対三位一体論を詳しく論じるつもりもなく、あくまでもJW親を理解するという観点で話をしてるのですが、例えば三位一体論者は祈りの中で「全知全能の創造者であるイエス・キリスト」と祈りの中で触れることがあるのでしょうか。つまり私が言いたいのは既存キリスト教の意識の中で創造者に対する意識が一体どれほどのものでしょうか。キリストの教えの素晴らしさを伝えるのは良いのですが、朝夕の食事前の祈りは、目の前にある食事が創造によってなされ、それに対する感謝を念をどれほどあらわしているのでしょうか。


少なくともまともなJWは創造者に対する感謝の気持ちと畏敬の思いは深い思います。そしてそれもこれも出版物の中に書かれている「創造という奇跡」に納得しているからです。組織上層部よりもはるかに優れた質の信仰を持っている人も少なくありません。


また、もともと1世の場合は聖書を知らない人たちと生活を過ごしてきました。そんな中たとえば学校でいじめや職場で虐待にもあってきました。今でいうセクハラやパワハラにもあってきました。


また男女間のいざこざで心身ともに疲れ果てた人もいました。自殺を考えた人もいます。人を信じられなくなった人もいます。自分の誠実な思いが周囲に理解されず、正直者がバカを見る経験をし、心を閉ざしていた人もいます。


多様化する価値観のなか、どのように子供をを育てていいのかがわからなくて悩んでいる主婦も少なくなかったのです。「人に迷惑を変えるような子供にはなってほしくない。」。そう話す親は父親でも母親でもいました。核家族化が進み、複数の子供を持つ若い母親が、故あって親に頼ることもできず、一人で悩んでいた時にだれも相談する人がいませんでした。今でこそ子供をネグレクトする親も非常に増えているのですが、まだまだ昔は子供が生まれると子育てのために家庭に入り、外との交遊が無くなり孤独感にさいなまれる母親も少なくなかったのです。夫は仕事で家にいず、テレビや新聞では真っ向から異なるアドバイザーがギャラ欲しさに極端なことを言います。遠くにいる友人と電話するにも当時はまだ通信費は高かったのです。日本電話電信公社しかキャリアは存在しなかったのです。混乱と制約の中で、寂しくて寂しくてならなかった子育てに悩む母親の姿を想像できますか。


青少年の惨い犯罪が生じると、女の子を持つ親は「どうすれば自分の娘が被害者にならないよう教えることができるのか」男の子を持つ親は「仮に自分の息子が加害者になるとどうお詫びしてよいのやら」と悩んでいました。


夫から否定される妻もいました。古畑任三郎というドラマの中で田中美佐子が犯罪者になるエピソードがありました。それは優秀な夫が、妻の才能を認めず、むしろ見下し、妻の自由を束縛し、いつでも命令口調で妻を指図するので殺意を抱いたというものです。たとえ暴力的でもなくても妻を支配しようとする夫に対し、妻が抱く不満が描かれていました。夫は自覚がないだけに、妻との擦れ違いは深刻です。犯罪を犯すまでもなく、熟年離婚で一方的に妻から離縁状を突きつけられる夫もいます。いずれそうなる可能性を秘めた家庭にあって「妻の果たす役割」を教え、離婚を考えることなく精いっぱいの努力をするよう教えるWTの教えは魅力的だったと思います。しかしそれも創造者の存在を認めたが故のことです。創造者に対する感謝ゆえに、家族生活を修復することを心がけるのです。『妻が聖書を学ぶまではうちはうまくいっていた』というのは自らの言動を反省せず、言いなりになる妻を支配する夫の一方的満足感による場合が少なくありませんでした。


愛する家族や知人を亡くして嘆く人もいます。そのような人にとって復活の希望は確かに魅力的です。たとえ40年前とは言えガンの宣告は死刑宣告でした。事故で家族を失う人もいます。たとえそうでなくてもいずれ人は死にます。WTの地上での復活という教理は、創造者に対する愛と力への信頼があればこそです。


そういったことを教えるWTの教えは、インターネットが普及する前の如何ともしがたい情報不足の時代においては、全く疑うことなく、まるでスポンジが水を吸い込むがごとく心に浸透していったと思います。